昔、地元の北海道で、大きな地震を体験したことがある。
一度目は、冬休みも終わりに近づいてきた真冬の夜。
家族でテレビを見ていた。
夜8時過ぎ、寝るまでのくつろぎの時間。
ふと何かが近づいてくる。低く唸る様な音・・・。
・・・!!
認識した時はもう遅かった。
立ってもいられない、座ってさえもいられない。
激しく部屋がぐらついてテレビや家具が踊りだす。
声をあげることすら忘れていると、突如後ろから体が引っ張られた。
母の腕だった。
どれくらいそうしていたのかは覚えていない。
暗い中、母の長い腕に抱え込まれながら、部屋の真ん中でじっと収まるのを待っていた。
二度目は次の年。完全に就寝していた夜10時過ぎ。
もともと寝ていたわけだから、気づいた時には轟音と、みんなを起こす父の大声、そして真っ暗。
このときは小学生の子供の体を宙に浮かせるには十分すぎる縦揺れだった。
暗いせいもあって、自分が部屋のどの位置にいるのかわからない。
静まった後に懐中電灯であたりを照らすと、タンスの上に置いてある和服用の大きな金属箱が、体の数センチ横に落ちていた。
前回同様に1階へ降りる階段や廊下にはガラスや食器の破片が散らばっていた。
踏まないように父に抱きかかえられて階下へ降りた。
父は今回も、家と家族の無事を確認した後、すぐに夜中の職場へ出て行った。
父は昔から早寝早起きで、当然他の家族もそのリズムに合わせて生活を送る。
そのせいで学校では流行りのテレビの話題についていけずに、もどかしい思いをしたことが多かった。
父の職場はちいさな町役場。それゆえ有事の際は、時間や職場の課の枠に関わらずに家を空けなければならず、いつでも対応できるように早寝早起きの生活リズムを作っていたらしい。
もちろんこのことに気づき、理解するのは、当分先のこと。
ただ、職場へ向かう父のデカイ背中と、母の力強い腕だけは、その時から鮮明に記憶に残っている気がする。
1993年釧路沖地震、1994年北海道東方沖地震。
最近どうしてもこの記憶が頭をよぎっている。
今日で東北の震災から17日目。
交通手段、物資、燃料、世間では徐々に混乱からの回復の兆しが見えつつあるようだ。
テレビではバラエティ番組や、ACジャパン以外のCMも見られるし、プロ野球の開幕予定、サッカーのチャリティーマッチの話題もある。
でもそれは所詮、被災してない我々の感覚だ。
現地では何も変わっていない。
今朝テレビに映っていたのは、家族全員が亡くなって自分一人になっても救助に励む老齢の消防団員。1日を菓子パン一つでやりつなぐ小さな避難所。震災の直後に満足いく設備の無い環境で出産を迎えた母子。
こういった通常ならば新聞のトップ記事になりうる話が大きくならないのは、同じ様な事がたくさんの場所で起こっているから。
たかだか3時間程度の停電の頻度に、不公平を感じている場合ではない。
入社当初から一番厳しく当たってくれた先輩がいた。
時期を同じくして夢のインテリア業界へ旅立っていった。
しばらくは茨城の実家に戻るらしい。地震が来たのは退社直後のこと。
遠く海を隔てて故郷の危機を知ることになった後輩がいる。
入社当時には彼の研修担当に当たり、二人で何度か夜遊びに繰り出したこともある。
どんな気持ちで受け止めたのだろう。地震当日は海外での農業研修の期間中だった。
実家の家族は青森で農業を営んでいる。
地元福島の役所に転職が決まった後輩がいた。
自分はどこに居れば良いのか、家族も内定も見通しが立たなくなってしまったことに、不安を隠せないでいたっけ。
でも最後は笑顔でこう言ってくれた。
『堀田さんに教えてもらった事をまとめた仕事ノート、まだしっかり持ってますよ。余白には「○月○日ホリタさんより」って!お世話になりました!』
皆、その後どうしてるんだろうか・・・。
先日この写真を見た瞬間に涙しました。

ぜひクリックして拡大して見てほしい。
泣きながら真っ直ぐ遠くを見つめる彼女の眼には、何が映っているんだろう。
守りたかった小さな命、愛する人、帰る場所、大切な思い出、全てを失った人たちがいる。
失ってもなお他人のために、昼夜身を削って働く人たちがいる。
まだまだ、この事に目を向け続けなければならない。

明るく「ただいま」と言ってください。
笑顔で「おかえり」と迎えてください。
「いただきます」「ごちそうさま」と伝えてください。
これからの当たり前の日常に、もっともっと幸せと感謝を感じなければならない。
まずはそこから。
そう感じています。
この度は最近の心境を素直に書かせていただきました。
メンバー一同、被災地の方々の1日でも早い復興を心よりお祈り申し上げます。