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ブーニャン。のブログ

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気仙沼、日本。学校はここでは4月に始まり、3月に終業式が行われる。春のように。それらは復興と再生を表す。学校の集会室はこの破壊的な津波で何かほかのものになった。挑戦的態度。
 群集がこの港町の津波災害地区のすぐ近くに集まった。2つの厳粛な儀式のために、しばしば涙ぐむ群集が階上小学校と中学校の小学校6年生と中学3年生の卒業証書授与式に会合した。中学校の講堂の中には、3月11日の津波以来の何百という避難民が彼らの毛布を集め講堂の後部に卒業式のために道をゆずったのは、どの親にもすぐにわかった。ヨハン・パッハルベルのカノンの調べ。生徒たちは表彰台に行進する。校歌を歌い。携帯で写真を撮る。

 しかし、誰もおどけない。儀式、ここでの重要な通過儀礼は先週行われる予定だった。代わりに地震が小学校を大破した。水の壁が家と先生と生徒の家族を同じように壊滅させた。階上小学校の生徒は誰も殺されなかったが、ひとりの中学3年生の遺体が週明けに確認された。そして他の2名は依然行方不明のままだ。
 親と先生はこのような状況下で卒業祝いを行った。そして彼ら自身の意思の行動。勇敢でさえある。
「たぶん儀式を行うには早すぎると我々は思った」中学校の校長・菅原ひろこ氏は言った。『しかし、この地域社会の人々やP・T・Aは言った。「私達は此れ等の子供たちのために祝いたい。なぜなら此れは15歳には無慈悲な体験だから」生き残った子供たちに輝いてほしい。彼らの生活を続けるために』

 菅原氏の兄弟姉妹は津波に襲われてから行方不明のままだ、そして彼女の家は押し流された。2名の他の先生が卒業式の先導役を演じた。ひとりは彼の家を失くし、他の先生の親の家、陸前高田にあるのは、ほとんど全滅した。
 28名の中3生は卒業証書を待っていた。畠山しゅんいちさん、48歳は保護者列の前の中央に座っていた。15才の息子のふみやさんの写真を持って。3人の息子で一番若く大きくてこの町の少年野球のセンターを守っていた。津波に襲われたときに、ふみやさんは母親のあきこさんと居た。高台の地に行くために二人は離れ離れになった。彼女だけが行けた。

 火曜日、畠山氏はふみやさんの青い体育シャツと白いスニーカーを着用した。「私の息子はいまだ行方不明だ。私が此処にこなければ、誰も彼の卒業証書を受け取れない」彼は言った。
 「息子に戻ってきてほしい。私の妻は彼を抱きしめたがっている。彼女は完全に失った」
そして、42名の小学6年生が彼らの椅子で落ち着かなくしているときに、みうらけんさん、37歳でホテルの料理人で消防署のボランティアをしている。親の列の後ろに座っていた。彼の12歳の息子、たくみさんは回復しているところだ。
津波の警戒音が鳴ったときに、2人は家に居た。学校から5分も経たないところだ。

 みうら氏は低地の避難した近所のひとたちの元に急いだ。彼の家に水が達しているとは決して信じられなかった。彼は携帯を海に運んだ。そしてたくみ君は救助されるまで1時間、海に押し流されていた。裸にされて破片に混ぜ合わされていた、消防署員によると。
 
 たくみ君は離れた地の親戚の元に連れていかれた。ショックで何日も話せなかった。彼が話し始めたとき、「彼は卒業式に来たかった」みうら氏は言った。「しかし、彼のところへ行くためのガソリンを得られなかった」災害は現実的にすべての緊急許可を得ているひとたちのガソリン供給を干してしまった。
 教師たちは公の卒業式の後で、個人的な儀式のときに卒業証書を彼の息子に手渡した。

過去の卒業式は儀式として新しい始まりを迎えた。教師たちは言った。しかし、火曜のは違ったのであろう。一方で過去の授業は学生生活の間、一般的に一緒に過ごす。災害は避難所に生徒たちを散らしてしまった。そして、大勢はほかの町に解散した。
 ここで生徒たちは回復状態にするために確固たる努力をした。多くの生徒は涙を拭えないことがわかった。校歌を歌おうが、簡潔な卒業後のパーティに参加しても。
 「彼らは悲しさを表さないようにすることを試みた。しかし、我々は彼らに微笑を見ることができなかった」鳥羽やすゆき氏、中三生の教師のひとりで卒業式に導いた。だから、パーティの終わりに、彼の周りで拍手をしている生徒を詠唱に導いた。
「再会しましょう」彼は叫んだ。

 生徒たちは斉唱で叫んだ「再会しましょう」

http://www.youtube.com/watch?v=6wpPk8qk3uQ

アンソロジスト濱田高志氏によるTV AGE ヒットメーカーが語る作品誕生秘話


濱田氏とは初対面。


メールであらかじめ音楽のことなどやりとりをしていた。


昔の映画や音楽が得意なおじいさんだったら嫌だなと思っていたが、アラフォーの外見でまだ若かった笑



1回目はミシェル・ルグランの巻


私は仕事があったため1時間くらい遅れて参加。


フランソワ・レシャンバック監督の「アメリカの裏窓」を鑑賞する。音楽ルグラン。


フラフープを回す子供たちのシーンが印象的。


休み時間を挟んで藤本義一氏が司会を勤めてるルグラン氏の演奏。


やっぱりシェルブールの雨傘は名曲だった。


ルグラン氏は調べるとゴダールの私が好きな作品である「女は女である」「女と男のいる舗道」「はまればなれに」の音楽を担当していた。