言葉で物事の本質は言い表せないと思っています。

 

「努力」という言葉も微妙に様々な概念を含んでいると思います。

 

辞書で調べてみると「目標の実現のため、心身を労してつとめること」とありました。

 

スピリチャル本や成功法則などで「努力」をネガティブな概念でとらえている考えもありましたが、あえてネガティブな面から「努力」という言葉を考えてみました。

 

私自身「努力するな」というメッセージを受け取った時に、何か納得できることもありました。

 

そこで「努力はすべきではない」という考えに文字通り捉えられてしまった時期がありました。

 

そうすると「努力しない」=「何もしない」になってしまい、怠惰を加速させてしまったこともありました。

 

そこで怠惰な自分に危機感を感じ、やはり努力して頑張らないといけないという考えになり、「努力しない」が正しい、「努力する」が正しいなどの考えが行ったり来たりしていたようでした。

 

元々、苦手意識のあったランニングに2年前位から取り組み始めたのですが、ランニングという「経験」を通して「努力しない」と「何もしない」との境界線を明確にすることができました。

 

2年位前から若い頃、取り組んでいた格闘技を再開したのですが、スパーリングですぐに息が上がるのを克服する必要性でランニングを始めました。

 

最初は100〜200メートル位しか連続で走れませんでした。仕方なく気楽に20分〜30分位走って歩くことを繰り返すようにしました。でも全然進展がありません。

 

ところが、2ヶ月位それを繰り返していたら、ある日突然、連続して4km走れるようになっていました。前々日まではやはり200メートル位しか走れなかったのですが。

 

そこで走れるようになるともっと長い距離をより速く走りたいという欲が出てきます。距離と時間を計りながら取り組むのですが、「長い距離をより速く走ること」と「スパーリングを楽にこなせるようになりたい」という「執着」が出てきてしまいます。

 

若い頃、格闘技に取り組んでいた時に、右脚に極真空手有段者のローキックをまともに喰らったことがあるのですが、それが後遺症となって今でも右の股関節の痛みがあります。無理をしてランニングを続けるとどうしても痛みが出てきてしまいます。

 

でもどうしても「昨日よりも今日のタイムを縮めなければならない」「昨日よりも距離を伸ばさなければならない」となどの執着により、痛みを我慢して「努力」してしまいます。

 

そうしていくうちにランニング自体を断念するしかなくなります。でも何度か断煙しては再開を繰り返していました。

 

3ヶ月前から4度目の再開をしました。今回は膝、ふくろはぎ、股関節のサポーターをしながら走ることによって順調に距離も伸ばし、タイムを縮めることができました。

 

ところが1週間位前から、今度は左の股関節の痛みが出てきてしまいました。

 

そこで今回は痛みが出てきた時点で走るのを止めることにしました。

 

今までは「また脚の痛みが出てきたらどうしよう」という不安や「昨日より遅くなっている」という絶望を感じながらランニングに取り組んできたので、ある意味、ランニングに苦痛を感じていて、「努力」しながら何とか継続してきた感じでした。

 

そこで、とりあえずランニングは継続するけど、痛みが出てきた時点で止めるようにしました。

 

やっとランニングが苦痛で亡くなりました。「努力しない」ということは、「何もしない」ではなく、「執着」を手放して「経験する」「ただやってみる(Just Do it!)」ことだと気付きました。

 

「経験する」ことによるフィードバックによって、いくらでも「改善」に取り組め、「改善」のプロセスを楽しむことができそうです。