皆様、初めまして。
株式会社クリエイティブプレイスの中村と申します。
丁寧 in Seattleにお邪魔した後でこの文章を書き始めております。
1987年生まれ、ギリギリゆとり世代の32歳です。やっぱりゆとりだな、と、たまに言われます。
26歳の時から井戸会に参加させて頂いていて、井戸会の皆様には公私共に大変お世話になっております。
現在、日本酒原価酒蔵の運営、日本酒の委託製造をメインに事業をおこなっています。
http://sake-genkabar.com/shop.html
今まで経営者紹介で登場した方々に比べますと、完全に見劣りしてしまうかと思いますが、一生懸命書きたいと思いますので、お付き合い頂ければ幸いです。
第1話 幼少期〜大学生活
宮城県仙台市で生まれ、高校卒業まで仙台で過ごしました。
父は、国土交通省に勤める役人。産みの母は、父が3回結婚しており、物心ついてから今まで会った事はありません。ただ、祖父母も一緒に暮らしていたのと、三回目に再婚した母が10歳からは一緒に生活していたので、それほど寂しい思いはしませんでした。
腹違いですが、12個下と18個下の弟がいます。
幼少期を育ててもらった祖母から口癖のように、「仙台一高に行って、東北大学に入りなさい。音楽はやってはいけない。」と言われ、育てられました。
父が音楽に魅了され過ぎて、勉強しなくなったと思っていたようで、その反動が僕にやってきました笑
その洗脳のお陰か仙台一高に進学しましたが、東北大学に入れる学力はありませんでした。
勉強がしたくなかった僕の人生の中心は、5歳から始めたサッカーでした。
小中はJEF市原ジュニア、ジュニアユース、高校は塩竈FCユースというチームでした。
高校に上がる時、JEF市原のユースチームには昇格することはできませんでした。
高校の時、チームとしては全国大会に出場が最高成績でした。
この高校時代のサッカーが人生に大きな影響を与えていると思っています。
365日のほぼ全てをサッカーに費やしました。片道90分かけて練習場に行って、終わるのが21時30分、帰宅するのが24時前。翌朝6時に起きて朝練。
いつもボロカスに怒られ、今の時代ならアウトな事もたくさんありました。
練習がキツすぎて、泣きながら走り続けた事もあります。
「明日走りだから」と言われると、明日が怖過ぎて体の震えが止まりませんでした笑
ここまでやっても、最終的に全国では勝てませんでしたが、夢に向かって情熱を持ち、ひた向き努力する事、仲間と感動を共有する事、また、挨拶、礼儀、感謝など、たくさんの事を学ぶ事が出来、今の人生に大きな影響を及ぼす3年間となりました。
当時は怖くて仕方ありませんでしたが、今となっては、厳しく愛情も持って指導してくれた恩師に感謝しかありません。
サッカー漬けでしたが、なぜか大学には行くものだと思っていました。
大学受験は、慶應、青学、立教、日大を受けました。
選んだ理由は、大学〇〇ランキングみたいな本の、女子大生モデルが多いランキングの東京の大学を上から4つ選びました笑
結果、日大しか受かりませんでしたが、これ以上勉強したくなかったので、親に頭を下げてお金を出してもらいました。
大学入学後、体育会サッカー部に入部しますが1ヶ月で辞めました。単純に遊びたかったです。
大学生活を謳歌しようと、イケてると思った事を片っ端からやりました。
可愛い子がたくさんいたサークルに入り、海の家やクラブでのイベントやって、芸能事務所でスカウトしたり、歌舞伎町で居酒屋のキャッチしたりなどなど。
アルバイトしていた芸能事務所は、有名な芸能人の方がたくさんいました。表向きの仕事内容はスカウトでしたが、実際の仕事は、夜の会食に女子大生を呼び、雑用をすることでした笑
その会食の場所は、六本木や西麻布の高級そうなお店ばかりで、いつか自分でもこうゆう所にこれるようになろう!と決意したのを覚えています。
そんな大学生活の中でも、独立後に最もインパクトをもたらした事は、大学4年間やり続けた客引きのアルバイトです。
路上でひたすらに声をかけ、自分が店に紹介したお客様の売上の一定のパーセンテージが給料と言う仕組みです。
平均月収40万円、100万円を超える月もありました。
この時、客引きという圧倒的営業力を身に付け、現在の会社の副社長、営業本部長などの中核メンバーにも出会う事が出来ました。