回転斎急須の「スピリチュアルを吹っ飛ばせ!」

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小山田圭吾擁護論がやかましくなってきた。

 

先ず、時代が違う、という切り口は論外。

 

小山田圭吾の行為は犯罪であり、当時の日本に暴行罪が存在しなかった訳ではない。背景に当時の「悪趣味ブーム」があった、という論も目にしたが、それは表現の話であって、行為の話ではない。「悪趣味ブーム」はあったかもしれないが、法治国家で「暴行ブーム」などあってはならないし、なかったのである。

 

次に出てくるのが、許すの許さないのという議論であろう。そこでは「許す」という言葉が実に曖昧な定義で使われたまま、往々にして噛み合わない議論が展開している。

 

仮に小山田圭吾を「許さない」と言ったとして、それはどういう意味になるのだろうか。

 

犯罪として裁け、という論はあっても少数であろう。刑法で裁くということは、国家権力の行使であり、いくつものハードルがある。弁護士をつけて裁判をしなければならないし、何と言っても、この場合は時効をとっくに過ぎてしまっている。

 

小山田圭吾が犯した犯罪が暴行罪であるとすれば、時効はたったの3年である。仮に相手の方が怪我をしていて、傷害罪が成立したとしても、時効は10年。この事件は恐らく40年以上は昔の話であるから、彼を牢屋に入れることはもう叶わないのであるし、殆どの人はそうするべきだとは考えてもいないだろう。

 

一方で、罪そのものは時効が近付くに従って目減りして、最後はゼロになって消滅してしまうかと言えば、そうではない。被害者の心の傷は生涯に渡って残り、その人を苦しめ続ける。この事件の場合、小山田は公衆の面前での自慰行為をも強要しているので、性的暴行の要素もある。傷の深さは計り知れない。

 

その点においては小山田が牢屋に入っていない、今後も入れることができない、ということを、罪が蒸発して消えてしまったということだと勘違いしてはならない。

 

さて、その罪を背負った小山田が、オリンピックに深く関わることが倫理的に正しいのか、というのが、今回の問題点なのであって、ここがようやく議論のスタートラインである。それ以前の戯論は雑音に過ぎない。

 

オリンピックには憲章があり、そこには美辞麗句が並べ立てられている。法律ではないにせよ、参加する者がそれを遵守することなくして、オリンピックの理念なるものが成立する筈もないのである。そこに小山田圭吾がいていいのか。

 

可能性はあったと思う。小山田がもっと早い段階で、自らの愚行を真摯に反省し、謝罪し、いじめや障害者差別をなくす為の活動に、長きにわたって取り組んできた、という経緯があれば、「許す」人も少なくはなかっただろう。それが「許す」ということなのだと思う。

 

しかし、問題が大きくなってから、穴埋め定型文を利用したような謝罪文を出して、はい以上です、と言ったところで、それが罪の償いになるとは到底言えない。このまま彼が続投すれば、オリンピックの理想は大きく毀損されることになる。

 

それでもいい、という議論なら、私も一歩下がって傾聴したい。オリンピック憲章などというものは全て建前であって、実際には腹黒い大人たちが私利私欲で行なっている営利行為に過ぎないのだから、そこに小山田が居てもいいのだ、というのなら、そうかも知れない。

 

しかし、だとしたら、そんな汚いお祭りの為に、なぜ国民全員が大きなリソースを投入し、今回に限って言えば感染爆発による健康や人命への被害可能性までも甘受しなければならないのか。たとえ嘘だとしても、それは美しい、という建前を捨てた汚いイベントに何の価値があるのだろう。

 

オリンピックは最早、満身創痍で沈没寸前の巨艦のようなものだ。その土手っ腹に、また大きな穴が一つ開いた。あらゆる擁護論は無効どころか、有害な目眩しに過ぎない。