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snoozer

最近、漠然と考えていることを書き綴ってみたい。まず一つ目は、本誌の全体的な方針について。まぁ、これは来年の春になれば、ちょうど創刊10年目という節目でもあるので、1、2年前からなんとなく考えてきたことである。 そもそも創刊当時に、僕が考えていた編集方針というのは、ひどくシンプルなものであった。アーティストとの立場ではなく、常にオーディエンスの立場に立つということ。これについては、いまさら繰り返すつもりはないので、詳しく知りたい人は、97~98年にかけての本誌のバックナンバーをあさってみてくれればいい。馬鹿みたいに、それだけを言い続けているから。 だが、おそらく当初は無自覚ながら、次第に紙面上で顕在化していた方針らしきものが、もうひとつある。それは、以前、ディスク・ガイド本を作ったときに、はっきりと自覚したのだが、単純に言えば、とにかくすべてのジャンルを横断した本でありたいということ。 堅苦しい言い方をすれば、スペシャリストとして、それぞれのジャンル、それぞれの音楽スタイルに対して、細部に渡る考察を行いながら、それを前提とした上で、すべてを俯瞰した時に見えてくる、そこに大きく横たわる一つの文化状況全体を見つめるジェネラリストであり続けたいということだ。そうした理由から、僕は意識的に、本誌のことをロック雑誌と呼ぶことを周到に避けてきたし、「音楽」、もしくは、「ポップミュージック」という枠組みの中で、すべてに取り組んできた。


もはや時効だろうから、書いてしまうけれども、実は、5年ほど前に一度、僕と野田努で、一緒に雑誌を作ろうというアイデアがあった。確か2000年の年末か、その年明け頃だったと思う。詳細とその前後のいきさつについては省く。それと、記憶が確かではないし、彼に余計な迷惑をかけたくないから、すべては僕自身の発言と取ってもらっても構わないのだが、とにかく我々がそこで話したのは、「きちんと機能している『ミュージックマガジン』を作ろう。その上で「ロッキンオン」より影響力のある本を作ろう」ということだった。

おそらく若い人達にはとても想像がつかないかもしれないが、10年ほど前までは、「ミュージックマガジン」を一冊読めば、それぞれのジャンルにおいて、ポップ・ミュージックが今、どんなことになってるか、なんとなく把握できたのだ。だが、去年年末に彼らが発表した、ジャンル別のベスト・アルバムに目を通してみたけども、あれではなんのことだかさっぱりわからない。

だが、ここ1、2年で、「そうしたジェネラルな視点そのものが必要とされていないのではないか」という気分が日増しに強まってきている。それを自分たちがやることそのものが難しいというよりは、そうしたジェネラリスト的な視点というのが、むしろ意味を持たなくなりつつあるのではないかという、ある種の徒労感にも似た、漠然たる思いが頭をもたげるようになってきたのだ。

そうした思いを強くしたことの一つに、コモンの前作「エレクトリック・サーカス」と昨年のアルバム「ビー」を取り巻く、ファンの反応がある。「エレクトリック・サーカス」というアルバムは、ヒップホップという枠組みを押し広げようという野心に満ちた作品だったが、世界中のヒップホップ・ヘッズから総スカンを食った。そしてカニエをプロデューサーに迎え、オーセンティックなヒップホップへと回帰した「ビー」は、大方の予想通り、歓迎された。

うん、勿論、僕にも理解は出来るけども、なかなか納得しがたい状況ではある。つまり、今現在、大方のポップミュージックというのは、ジャンルに細分化されているのみならず、それぞれが、それぞれのトライブに対する忠誠心に支えられているのだ。広告代理店が相変わらずのさばるはずだ。こんなにも、マーケティングしやすい状況は、かつてなかったはずだ。

だが、こうした全てがトライブにわかれているという状況は、僕自身にはとても居心地が悪い。実際、バックドロップボムでも、ジュニア・シニアでも、lcdでも、ハードファイでも、ウルトラ・ブレインでも構わないが、彼らのようにジャンルを横断しまくるサウンドは、こうした状況下では、決して分があるとは言いがたい。

だが、何があろうと、僕は彼らを支持する。壁を築きあげることは、必ず無益な争いごとを誘発する。マヤ・アルプラガサムがいうように、戦争をやめるもっとも手っ取りはやい方法は、すべての人間が混血になることだ。だって、ほら、19世紀のヨーロッパだって、ずっとそんなことやってたじゃんか。話がずれた。
おそらく僕自身のアークティック・モンキーズへの過剰なシンパシーも彼らの音楽性がUKヒップホップからの多大な影響下にあること。あるいは、「ア・サターン・ロマンス」のような曲の存在も何かしら関係しているのだと思う。あるいは、書かなきゃいいのに、やぱり書いてしまった。EDITORSNOTEにおけるインディ村の住人に対する不快感にしても、その根は同じ部分だ。

だからこそ、少なからずそうしたインディ村の気分を逆撫でしようという意図もあったに違いない、オーディナリー・ボーイズのサム・プレストンのリアリティ番組「ビッグ・ブラザー」への出演も、なんとなくわからなくはないのだ。でも、やっぱり偉いよね、プレストン。「ビッグ・ブラザー」効果もあって、ブリクストン・アカデミー公演が決まるや、そういうところで、レディ・ソヴェレインをサポートに起用したりするところ。また、話がずれた。

話を戻すと、やはり同じようなことを感じるのは、ミクシーのようなネットワーク・モデルに対してだ。同じ趣味・同じ興味によって、あらかじめ情報を共有化し、そこで繋がることを前提としたモデルというのは、とても便利だけども、ある一点においては、ひたすら情報が蓄積されていくが、そもそも興味のないところに飛び火する可能性は逆に少なくなっていく。

しかも、一人の人間がアクセス可能な情報量は限られているので、往々にして、それで十二分に充足してしまうのだ。そうなると、血が濃くなっていくのばかりで、乱暴に言うと、誰もがレッドネック化していく可能性だってなくはない。そこでは混血が生まれる可能性は極めて低い。

そもそもインターネットというメディア自体が、アクセスの仕方にしても、リンクにしても、あくまで点と点を繋ぐ、タコ壷型のネットワーク・モデルなので、いきなり繋がるはずのないモノ同士がぶつかるといった事故が起こりにくいという点もある。

だが、僕がこの「スヌーザー」というメディアを通して、期待していたのは、そうした事故だった。突然、混血が生まれてしまう事故だった。そう<フジロック>を支持する理由もまったく同じだ。だからこそ、ある共通点によって、繋がるのではなく、差異によって、なにがしかが結びつくというモデルを模索してきたはずなのだ。

だが、今回、最終的に選出したベスト・アルバムなり、ベスト・シングルなりのラインナップを眺めてみると、少しばかりそうした部分で、捨て鉢な部分を感じなくもないのだ。いや、わからんな。頑張ってるよ、俺は。
それと、ここ最近、ずっと考えているもう一つのこと、それは文明や文化というものは、基本的に進化ではなく、退化に向かうということだ。

ほら、ボーズ・オブ・カナダの二人が好きな、70~80年代に作られた近未来を描いたSFによくあるシュチエーションで、現代人が未来に行くと、世界が廃墟化していて、人類が文明をうしなっているどころか、言語さえ失っているなんて設定がよくあるよね。以前は、ああいう退化というのは、原爆が連鎖的に爆発するとか、何かしらの決定的な破壊が原因だと思っていたのだけど、どうやらそういうことではないらしい。

ハリウッドのスタジオ・システムが崩壊してしまった60年代以降は、かつてのような映画が撮れなくなってしまった。あるいは、レコーディング技術がアナログから、デジタルに移行してしまってからは、かつてのようなサウンドは録れなくなってしまった。

僕はいつもこれを漬物に漬ける糖床に例えるのだけど、5年かけて培ったものも、ほんの数日間放置してしまうだけで、あっという間にすべて台無しになってしまう。今回、これだけ編集スタッフが足りない状況なのにもかかわらず、こちら側から、進んでスタッフを一人切ったのは、そうした実感によるところが大きい。大切なものを、その価値を理解することなく当たり前のもとのとしか思わない人間に預けていると、必ずダメにしてしまうのだ。また、話がずれた。

いずれにせよ、文化や文明―特に、文化というのは、我々一人ひとりの意志と努力がないと、絶対に退化する。そして、予想しえない事故の起こりにくい、トライブ同士がきっちりと棲みわけている状況では、その退化の速度はさらに加速する。なぜなら、そこではすべてが絶対化されこそすれ、相対化を徹底的に嫌うからだ。そんな場所に未来はない。