昨日の補足である。



スピリチュアリズム発祥の地、イギリスやアメリカなどでは、デモンストレーションと呼ばれるが、江原啓之さんは「公開カウンセリング」と銘打って霊査を行う。

江原さんのやり方としては、公演参加者の中から希望者が「公開相談申し込み用紙」に相談内容を記入し公演前に申し込むのである。


通常の公演では、江原さんがくじ引きさながらに引き当てた相談者に、ステージまで来ていただき、個人的に問題などがある時にはマイクを通さずに、カウンセリングを進めるのである。


やらせであるとか言う人もいるようだが、一度現場に居合わせれば、霊視のその的確さが実感できるであろう。

なぜなら、その相談者しか知りえない通信内容が、ストレートに相談者の心へ響いていくからである。それを観ている私たちには勿論、他界した霊や守護霊から伝えられた通信が、事実であるかを知るすべはない。しかし相談者の表情やしぐさを目の当たりにし、その驚きの表情や感動の涙を見れば、それが仕込みややらせでない事は一目瞭然なのだ。



しかし今回の武道館公演では、残念ながら広いステージであるために申し込み用紙に書かれた内容に一方通行でカウンセリングをしていくという手法であった。


それでも充分に1万人以上の観客には、霊視の正確さから来る、スピリチュアルな世界からのメッセージを実感できたことだろう、いや私は充分に受け取ることが出来た。


つくづくスピリチュアルメッセージは、物珍しさやオカルト主義的な目的のためにあるのではなく、この現世でひとりひとりが人生をより良く生き抜くためにもたらされた愛のメッセージだと思う。


特に今回の公開カウンセリングは、この現代社会のあぶり出しのような相談が多かった気がする。


「生きていく価値が見出せない」

「結婚もせず、このまま一人で孤独死してくのでしょうか?」

などと、一昔前ではあまり悩みとは捉えられないような相談が続いた。


現代社会では、より多くの経済を得た人が優れた人であるというような風潮が広がってしまい、心の交流が稀有になってしまったと言えよう。


そんな中、この時代を選んで生まれてきた純粋な魂たちは、この世間に馴染めずに引きこもりになってしまったり、人生を悲観し、生きる価値を見出せずにもがいているのだ。

私にはそんな相談者の魂の叫びのようなものが聞こえてきた気がする。


しかしこうして少しずつではあるが江原さんから始まった小さな光が、、この彷徨える魂を導く小さな灯火が、ひとつまたひとつと、全国へ、いえ世界へ広がって行くことを願って止みません。



そら


江原啓之IN武道館



江原啓之さんのヴォイス公演に行って来た。
江原さんが仰るところのエンターテイメント性を重視した「ヴォイス公演」は当分行わないという。


今回は氏のスピリチュアル・カウンセラー20周年記念公演だ。



それにしても、見事な公演であった。
素晴らしい演出、一流のミュージシャン、そしてステージと一体となった客席。
かつて霊能力を公言した人で、このような興行を行った人はあったであろうか?


私の関知しない世界では、いわゆる「信者さん向け」の武道館公演はあったのかも知れない。しかし今回は新聞・雑誌・テレビなど、一般の方にも告知しての公演である。



それだけ世間に認められているという証でもあるのだろう。




先日、発売されたばかりの「週刊現○」のような、誹謗中傷ネタで、発行部数を伸ばそうとするような雑誌もある中で、今回の偉業は近代スピリチュアリズムの歴史に刻まれるひとつの試金石となるであろう。


ただのブームで終わるという、物知り顔の評論家が正しいのか、本当の意味でのスピリチュアリズムの夜明けの一幕となるのか?


2日間にわたる武道館公演が大成功に終わり、この国の未来は明るいと心から思った。

江原さんは書籍や雑誌などで「一億総評論化時代」であるとか、「フランケンシュタイン世代」であるとか仰るが、これだけたくさんの人々が、大切な何かを求めて、武道館を埋め尽くしたのだ。

そこには「利他愛」に目覚めようとする、きっかけを求める魂の乾きがあるのだ。



この2日間の公演で、何かひとつでも心の琴線に触れるものがあったなら、それを身近な誰かに伝えてほしい。


一人が一人へ、そうやって伝えて行くだけで、少しずつ、ほんの少しずつだけではあるが、明るい未来に変わるきっかけになるのだから。



私たちが歩む「スピリチュアリズム」というこの道は、私たちがこの世を去ってからも永遠に続いていくのだから。




光


スピリチュアリズムでは、「想い」も、「言葉」も、「行動」も全て同じである。
全てはカルマ(因果)になる。

では、カルマとは何か?

原因(因)があるから、結果(果)を生むのである。
仏教で説くところの、「因果応報」というものであろう。


私はスピリチュアリズムを知っている友人から事あるごとに、
「これってカルマになるのかな?」というセリフを聞く。
「想い」も、「言葉」も、「行動」も全て同じであるのだから、当然、カルマ(因果)になる。

しかし、オカルトちっくに恐れ戦くばかりがカルマではなく、大我な想いもまた善きカルマとなるのだ。


もちろん、何もしないよりは言葉に出して、他者の意識に善い影響を与えたほうがいいし、言葉で発するだけでいるよりも、行動を起こしたほうが遥かにいい。


だが「(怠惰はよくないが)自分は何も出来ない、ダメな人間だ」などと自分を卑下するよりは、「自分は心をこめてこの想いを伝えているんだ!」とほんのちょっぴりでも自信が持てたなら、それは明日への行動につながる原動力になるかも知れないので積極的に自分を認めることも大切なのだ。


少しでも善い想念を持つこと、そして愛に満ちた言葉を遣うこと、それは大河への一滴かもしれないが、確実に他者へ影響を及ぼす、意味がある事なのである。



シルバー・バーチは、
「落ち葉が一枚落ちるのも、神は見逃さない」
という意味の言葉を残している。



あなたが望む、望まないに関わらず、全ての出来事には摂理が作用し、誰もそこから逃れることは出来ないのだ。


だとしたら?


あなたが発したよい想念(因)は、必ずよいカルマ(果)となって返って来るし、あなたが口にしたよい言葉(因)も、よいカルマ(果)となって返って来ることを保障しているようなものだ。
であるから、あなた自身が少しでも因果律を感じたことがあるのなら、迷わず、善き想い(想念)を発し、善き言葉(言霊・ことたま)を語り、善き行動をするべきである。


それはあなた自身のためでもあるし、全ての人たちのためになるのだから。




ただし、見返りを期待した「想い・言葉・行動」は、「打算」という負のカルマとなるのでお忘れなく。