こんばんは、
自己ハンドリング型スピ アドバイザー
地宮みさとです。
 
 
今回もまた、節分から始まるお話です。
 
…「昨日もネタにしてただろう」?
 
確かにそうですが(笑)
もうひとつお話ししたいことがあるので、
今一度お付き合いいただけましたら幸いです(^_^)
 
 
 
実は、我が家でもやりませんし、
私自身もこの目で見たことはないのですが…
 
節分と言えば、
豆まき、年の数だけ豆を食べる、
そして最近になっては恵方巻き…
 
の、他に、
もうひとつ何かありませんか?
 
 
そうです、
 
鰯の頭です。
 
 
「柊鰯(ひいらぎいわし)」
と呼ばれるのは、
私も今年になって初めて知りましたが
(※地方によっては色々と別の呼び名があるようです)
 
鰯の頭と柊を玄関先に飾って、
まず鰯の臭いで鬼を遠ざけ、
たとえ近寄ってきたとしても
柊の葉の棘が鬼の目を刺すことで、
鬼(邪気や厄)が門口から入らないための風習…
なのだそうですね。
 
 
 
この風習は古くからあったようで、
柊鰯が元になって、生まれたとされる言葉もあります。
 
何だと思いますか?
 
 
 
…といっても、割とそのままの言葉で(笑)
 
「鰯の頭も信心から」
 
です。
 
 
ただ、これはどちらかというと、
皮肉や揶揄(からかい)に使われることの多い表現ですね(^_^;)
 
鰯の頭のようなごくありふれたものでも、
厚く信仰されるようになればとてもありがたがられる…
 
と、そういった意味です。
 
 
柊鰯を見る限りでは、
あくまでも“おまじない”くらいのもので、
これ自体が信仰の対象になっているわけではなさそうに思うのですが、
だからこそのこの表現なのかもしれません。
 
 
 
崇め奉られる鰯の頭、
と言うと、笑い話にしか聞こえないかもしれませんが…
 
この「鰯の頭も信心から」は、
人に対しても用いられることがあります。
 
何かを頑なに信じ切っている人に対して、です。
 
 
そして、
現代で言われる“スピリチュアル”に、
興味を持っていたり関わっていたりする方の中にも、
 
頑固に信じ過ぎている方って、
実は案外、いらっしゃるのでは?
 
と、思わなくもないです^^;
 
 
それも、
特定の存在に対して、というよりは、
 
「“スピリチュアル”そのものに対して」
ですね。
 
 
スピリチュアルに傾倒し過ぎるあまり、
周りが見えていない、
地に足がついていない…
 
そんな状態になっていませんか?
 
あるいは、そんな状態の方が
周囲にいらっしゃいませんか?
 
 
 
「鰯の頭も信心から」という言葉からは、
“鰯の頭”を頑なに信仰し続けた先のことは、
はっきりと読み取れません。
 
それは人それぞれ、ということではないか、
と思います。
 
 
ですから、スピリチュアルに偏りすぎている状態も、
一概に良い・悪いと言えるものではありません。
 
とはいえ、そんな状態では、少なくとも、
「スピリチュアルを日常の中で活かす」
ことはできていないでしょうね(^_^;)
 
 
 
この記事を読んでいただいたのも何かの縁と思って、
皆さんも一度、
 
【ご自分の“スピリチュアル”との向き合い方を、
振り返ってみて】はいかがでしょうか?