平和の森のタコ師匠
久しぶりの休日。仕事のことは考えたくなかったので小説と缶ビールを片手に地元の公園へ行った。【 平和の森公園 】子供たちがサッカーをしたり、ダンスの練習をしている集団なんかもいる。どこにいても笑い声が聞こえる、その名の通り平和な公園だ。俺は日陰のベンチに腰かけた。日陰とはいえ、もう7月。首筋を汗がつたう。缶ビールを開け勢いよくビールを飲んだ。冷えていてうまい。俺は、特に理由も無くたまにこの公園に来るのだがいつも凧(たこ)をあげているおじいさんがいる。本当にいつ来てもいるから、勝手に「タコ師匠」と名付けている。タコ師匠は周りには目もくれずただひたすらに凧をあげている。なんでいつも凧をあげているのだろう。勢いよくゲップを吐きだした俺はそんな疑問をもった。毎回俺が来る度にいるということはきっと毎日この公園で凧をあげているということだよね。単なる暇つぶしではないはずだ。俺はぼんやりとその理由を考えた。そして、3つの仮説を立ててみた。【 仮説その1 】小高い丘の上に建てられた病院の窓から、いつも凧を見ることを楽しみにしている難病の少年を励ますため。凧に「たかし君、手術がんばれ!」とか書いて無いよね?もしこれが理由だったら、タコ師匠、イケメンすぎるぞ!【 仮説その2 】凧で宇宙人と交信できると思っている痛い奴。これは痛い。まじで痛い。空の先に宇宙を見ているのかと思うと少し心配になる。【 仮説その3 】逆に凧がおじいちゃんを操っている。逆転の発想ね。誰かが遠隔操作で凧を操っていて、その紐をつかんでいるおじいちゃんを散歩させてる的な。もしも話す機会があれば正解を聞いてみたいものだ。でも、タコ師匠。何だかカッコいいんだよなぁ。凧をあげながら凛と立っている、その背中がカッコいい。「凧を極めた者」みたいな感じで。俺は缶ビールを飲みながら、そんなタコ師匠を見ている。俺、は何なんだろうな・・・・・・。何かを極めたどころか「俺は○○です!」と胸を張って言える肩書きも無い。そう。何者にもなれていないのだ。ぬるくなった残りのビールをあおる。しかし、本当に何者でもないのか?というよりも、何者でもない人間なんているのか?〇〇の友達。だったり〇〇の同僚、恋人、元彼・・・etc.人と関わっている以上、何者でもない人間なんていないのではないか。例えば、産まれてから一度も外へ出ず、誰とも関わっていない人間ですら、〇〇の子供という肩書きがある。つまり、この世界に生を受けて生きている以上、必ず、何かしらの者なのだ。そう考えると、「何者でもない者」という存在が、急にカッコよく羨ましく思える。人間関係はもちろん素敵な出会いもあるが、面倒臭い部分も多々ある。何者でもない者と、何かしらの者。どちらが良いのだろう。他の人もそんな事を考えたりするのかな。もしかしたら、師匠は人生におけるそんな意味のないモヤモヤを忘れるために、凧を空にあげているのかもしれないね。俺は青空を泳ぐ師匠の凧を見上げながら、二本目の缶ビールをプシュッと開けた。