上野で開催されているゴッホ展に行ってきた。
かの有名なフィンセント・ファン・ゴッホの絵を、今なら上野で見ることができる。
場所は東京都美術館だ。
展示はゴッホだけではなく、他の作家達の作品も数多く出展されていた。
見終わった感想といえば、腰が痛い、だろうか。時計を見れば約二時間ほど立ちっぱなしだったのだ。こういう展示会に慣れていないせいで目も足も疲れていた。終わった後はすぐにベンチに座り、三十分ほど休憩を取った。それほどまで集中されられる作品だったということだ。
最初はゴッホ以外の作家達の作品群が並ぶ。本命でないからと侮るなかれ、彼らの才能、魂は絵の中に今も生き続けていた。私も最初はゴッホの絵が一向に出てこず、「ゴッホ展ではないな」と思いはしたが、彼らの作品はゴッホの作品と同等の光を放っていた。芸術素人の私はネームバリューに気を取られ、流され、作品の本質を見ようとしていなかったのだと反省した。実際、私が一番長く見たのはゴッホの作品ではない。とある男が座っているだけの絵に歩みを止められた。その場から動けなかったとでも言おうか。作品の説明欄を見るに、時代と共に「印象派」「抽象派」など、今でいう流行もあったようだ。
私が一番好きな描き方は新印象派の点描だ(名前が間違っていたのならすまない)。米粒のような点を紙一面に散りばめ、色使いによって絵を映し出す。その技法は時間と根気、命をも削るものだと言っていい。お金を稼ぎたいだけならこんな面倒なことはしないだろう。大きな白紙を点で埋め尽くす、一体どれ程の時間を労するだろうか。彼らは誰に強制されたわけでも、金稼ぎでもなく、自らの芸術のためにそれを描いたのだ。だからこそ、私の足は絵の前で止まるのだ。止まらざるを得ない。一枚の絵から彼らの生き様、人生観の欠片に魅せられたのだから。
展覧会の後半はゴッホの作品群だ。彼の人生を辿るようにそれが何枚も何十枚も置かれていた。私は重ね塗りの油絵のゴッホしか知らなかったが、それまでの過程が山のようにあった。絵の描き方は時代と共に変わっていく。流行や真似、試行錯誤が何度も垣間見えた。絵の過程を見るうちに彼が生まれながらの天才ではないことを知る。というより、「天才」と一言で片付けるには失礼だと感じた。何十何百の練習の歳月を才能だけで片付けてはいけないと思った。生前に売れなかった苦悩も含めて、彼の人生という一枚の絵をどこまでも輝かせていたのだ。すまない、やはりゴッホは天才である。私は彼の作品をそれ以上言語化できそうにない。
展示会はゴッホも、その他の画家の絵もとても楽しめるものだった。
最後に。
私は展覧会に行ったが、美術を知り得なかった。感じることすらできなかったかもしれない。彼らの苦悩も努力も探究心も完全に理解などできるわけもない。どこまで行っても私は素人であり、美術を語ろうにも蝉の抜け殻のように軽く、中身もない。けれども、言葉にできない熱だけは胸に残っている。
是非この機会に、ゴッホ並びに、絵に生きた者達の人生に触れてみてはいかがだろうか?(柾)



