昨今「ジョーカー」の名を耳にすることが多く、本編を見てみないと何のことだかさっぱりだったので試聴してみた。

上映当時から人気が高かった気がするが、試聴後に「ああ、これは心に刻まれるな」と納得した。具体的にどうして刻まれるのかと言われれば、演出、音響、内容の過激さ、考えさせられる社会問題、人気作『バットマン』との関連性、そしてなんといっても印象的なピエロの顔。

視覚的刺激と聴覚への臨場感、視聴者を飽きさせない工夫、そして胸を痛ませ、訴えかける内容が合わされば人気も高いだろう。

 

 

具体的レビューに入る前にちょっとした雑談になるが、最近は国内外問わず、ヴィラン(悪役)サイドの話が人気の傾向があるように思える。ヴィランにもヴィランなりの正義があるというか、むしろ正義に真っ直ぐな主人公サイドよりも、欲や苦悩に負ける所に人間味を感じれるヴィランの方が親近感と、それにより起こる同情があるのではないだろうか。国内で言うなら『鬼滅の刃』などがそうだろう。超人気作となった『鬼滅の刃』は簡単に言えば『桃太郎』、鬼退治の話だ。

 

 

だが決定的に違う点といえば鬼サイドの話があるかないかだ。『桃太郎』にもし鬼サイドの話があるなら勧善懲悪が揺らぐ可能性がある。桃太郎の勝利を素直に喜べないかもしれない。もし倒された鬼に子どもがいたとしたら、子どもは何も知らずに自分の親である鬼が突然現れた桃太郎という人間に懲らしめられたのだ。その上金品を強奪される。精神の発達途中の子どもにとってはプライドもお金も奪われたことになる。幼少期であればなお子どもにとっては大きな影響となるだろう。こうなれば『桃太郎』の話の見方も変わるだろう。桃太郎の勝利は素直に喜べなくなるだろう。考察する者すら出てくるだろう。鬼の子どもはずっと桃太郎を憎み続け、鬼側からすれば人間皆桃太郎の一族と思うかもしれない。子どもの鬼が大人になった時、恨みからまた人間達を襲い、金品を奪い去り、それを見た罪なき人間の子どもが第二の桃太郎になるかもしれない。ここまでくれば繰り返される負の連鎖の寓話とも読み取れる。戦争の風刺とも言えるかもしれない。

話が飛躍しすぎたが、ヴィラン(悪役)サイドを映すとはこういった効果を得られる。それを上手く利用したのが『鬼滅の刃』である。今回レビューする『ジョーカー』も元は『バットマン』のヴィラン役。本来主人公になり得ない存在だ。そのヴィランを主人公に置いてここまで人気になったということは、多かれ少なかれ“同情”や“考えさせられた”、つまり心を動かされた人がいたということだろう。

国内外問わずこの風潮が来ているということは、我々は勧善懲悪の“曇りなき正義一筋”の主人公よりも、“苦悩にもがく善悪を持った(又は善でも悪でもない)”悪役の方が感情移入できるようになってきているのかもしれない。これは今の社会情勢がそうさせているのだろうか?私は“曇りなき正義”を好きだろうと“苦悩にもがく悪人”を好きだろうとどちらも正解だと思う。ただ、どうしてそういう風潮になりつつあるのかが疑問である。トリガーは何だったのだろうか。

 

と、長々と余談を挟んだが、要するに『ジョーカー』は『バットマン』のヴィラン役に焦点を当てた外伝的な話だということだ。

 

それを踏まえて内容のレビューに移っていく。極力、核心に迫るようなネタバレは避けるつもりだが、気になる方はここで読むのをやめることをお勧めする。筆者的には本作を試聴後、このブログをまた読んでくれると嬉しい。

 

 

さて、本題に入ろう。

ネタバレをしないように語るためちょっと分かりづらいかもしれないが許してほしい。

まず初めに、私はこの作品がとても気に入った。『バットマン』も見たくなった。どの辺りが好きだったかをあげるとするならキリがないし、“好き”に具体的な理由などないのかもしれない。が、気になった点なら挙げられるので、続々と挙げていく。

 

まず主人公の悲惨な現状からだ。イジメのような描写が静かな波のようにジワジワと押し寄せる。イジメられる主人公というのはよくある話だ。見る者が頑張れ!と応援したくなるからだ。だが一般的にイジメられる主人公というのはその後、努力や奇跡によって這い上がり、ヒーローになるというのがセオリーだ。けれども『ジョーカー』は違う。ジョーカーはバットマンじゃない。スーパーヒーローの力は無いし、主人公としての幸運もない。だから現実同様、ただ打ちのめされるし、状況を変えるべく何かをしようとすれば問題が出てくるし、警察にだってちゃんと捕まる、犯罪者にだってなる。弱り目に祟り目、救いがない様は現実と同じ。いや、もしかすれば現実の方が救いがあるかもしれない。ただ、彼の運命を導く力はやはり主人公と言える。まあ、その運命が主人公にとって良い方向だとは限らないわけだが。

 

 序盤を見た限りでこの話は“悪役が悪を成す”という単純な話でないことが分かった。元々悪の権化だったのではない。最低な、気分の悪くなるようなことをするのはむしろ主人公の周囲なのだから。ジョーカーがヴィランだという話は予め聞いていたため、どんな力を持ち、どんな悪人なのかと思ったが、答えはただの人間だった。それに驚いたというより、悲しくなった。悲惨な彼にどうか悪魔的な力を与えてほしいとまで思った。彼を悪魔だというなら、人間を悪魔に仕立てるのは悪魔ではなく人間なのだろう。

 

そして、序盤中盤終盤問わず度々出てくるジョーカーの踊り。奇妙な踊りだと思ったが、それがまたずっと見ていられる魅力がある。うろ覚えではあるが、その踊りが最初に出てきた時の尺の使い方の豪快さに私は関心を持った。どこか意味でもあるのだろうかと試著者を考えさせられる、伏線のようでもあり、意味付けでもあるような、印象的なシーンであった。終盤で階段を下がりながら踊るシーンはやはり皆好きなのではないだろうか?私もそのうちの一人だ。階段を“おりる”、“くだる”といった“堕ちる”という負の意味合いを持ちながらも、楽しそうな、正に喜劇のような踊りを舞いながら落ちる。枯れ葉が最後にひらひらと落ちていくようにも見えた。最後の踊りのシーンも含め、踊る様は道化師を象徴するものだった。

 

この作品には道化としての、喜劇としての“笑い”の印象がある。大衆の前で主人公アーサーが笑ってしまうシーンは、とても見ていて胸が苦しくなった。共感性羞恥に似た何かを感じていた。辛かった。本当に見ていて辛かった。この作品には笑いのシーンは沢山あれど、本来の意味合いであるプラスの笑いはどれ程あったか。

主人公アーサーの表情はとても良いものだった。彼の演技は見ている者を物語に没入させ、心を動かす力がある。画面外の何もかもが目に入らなかったのをこの身で感じた。行動だけでいえば異常性のある人間、ヴィランという役に対する役作りが相当なまでに綿密に作り上げられていた。その他のキャラクター達も、主人公に注目をいかせるべく悪目立ちもなく、一人一人がそれぞれの人生を生きていた。内容も相まって、違和感の無さで映画の内容が現実同様にさえ思えた。

 

音響もとても良く、バイオリンのような何か(わからなくて申し訳ない)の音響がとても良かった。美しさの中に君の悪さや怖さが内在していた。『ジョーカー』の異様さを聴覚から刺激していた。

 

※重大なネタバレ含む。

ネタバレをしないとは言ったが、どうしても感想を言いたいところがあったため、させてもらう。

 

終盤にて。恋人は全部幻覚だった、母も幻覚を見ていた(考察の余地あり)、ということが分かるシーン。どこまでを主人公アーサーに試練を与えればいいのか。どこまで視聴者に悲劇を見せるのか。そんなことを思いながらも、「なるほどな」と納得していた自分がいた。悪意なき病。それがジョーカーなのかと。

 

同僚を殺し、同僚を逃がしたシーンの歪さ。その後の、もう後戻りはできないといった雰囲気、流れ。後はずっと、不思議なショーを見ているようだった。悲劇に似た喜劇を魅せられているようだった。逃した同僚に対する扱いは本当に心の底から友人への愛を感じた。とても自然に見えた。逃した同僚の特徴的な身体も、優しい性格も、道化師を職としたことからも、その背景を軽く想像しながら映画を見れた。あえて語らず、考察の余地のみを与えてくれたところには「ありがとう」と言いたい。

 

主人公アーサーについてだが。

彼は仮面を被ることでヒーローとなった。彼にとっては、その仮面が素顔だったのだろう。

 

 

最後に、纏まらない考えを書いて終わろうと思う。

主人公アーサーが狂ったのは病気のせいか、それとも周りのせいか?本当に狂っていたのか?悪役とは何なのだろうか?そんなことを視聴後も考えさせる、視聴を悩ませる、全くいい問題作だ。

 

主人公アーサー、ジョーカーにどこか格好良さを覚えたが、彼はなりたくてなった訳ではない。ジョーカーには憧れるものではないし、憧れてなれるものではないのだろう。

 

それにしても悩むだけ悩んで、結局上手く纏まらない長文になってしまった。すまない。

 

 

素顔を隠す仮面は、彼にとっては素顔を曝け出す道具だった(柾)。