今日の理系本読書会では、最近読んで非常に大きな影響を受けたハンナ・アレントの『人間の条件』を紹介した。「バカの一つ覚え」の如くこの著作に言及しまくっているのだが、今回はあまり触れられることがない第六章のアルキメデス、コペルニクス、ガリレオの部分に言及した。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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ニコラウス・コペルニクスとガリレオ・ガリレイはともに地動説を唱えながら、前者は異端と判断されることもなく、その著書の出版も禁じられていなかったのに対して、後者はローマ・カトリック教会によって1633年に異端と判断され、その著書の出版が禁じられた。同じ地動説を唱えながら、ローマ・カトリック教会において異なった判断が下されたことは、私の中で長く腑に落ちないことであった。しかしながら、今回『人間の条件』の第六章を読むことで、長年の謎を解き明かすことができた。

わかりやすく書くと次のような理由によるようだ。コペルニクスの展開した地動説は純粋に数学に基づいたものであり、言わば観念上の問題にすぎないとされた。一方で、ガリレオの展開した地動説は、望遠鏡を発明することで、「知覚感覚的」に、つまり「可視化」に基づいて地動説を証明してしまった。単純に「観念上」の「証明」であれば許されるものの、「知覚感覚的」に「証明」するということは、言わば「神の領域」を侵すというのが、かつてのローマ・カトリック教会の判断だったようである。

アレントは本章において、コペルニクス以前の天体観を「地球中心」、コペルニクスからガリレオにいたるまでの天体観を「太陽中心」、ガリレオ以後の天体観を「中心なきもの」と捉え、「自然科学」は「宇宙科学」へと変容したと解き、ガリレオとニュートンを「現代相対主義の父」と位置づけている。

ここまで読むと、アレントにとっていわゆる「コペルニクス的転換」というものはあまり意味をなしていないように読み取れる。本章以前の、「労働」、「仕事」、「活動」といった「活動的生活」の三つの概念を意識すると、アレントは「ガリレオ的転換」とも言うべき転換の方をより重視していたのではないだろうかと考える。

我々は当たり前のように「コペルニクス的転換」という「言葉」を使いがちだが、実はその真相を細かく見てゆくとこの「言葉」が必ずしも「適切」とは言い切れないのかもしれない。本章にかぎらず、この本は古代から現代に至るまで、それぞれの時代における世界観の変遷にも触れられているため非常に深い…。精確に読み取るまでには何回も読み直す必要がありそうだ。