今回はとても現実的なお話です。
個展とも関係ありません。
結論も出ないのでスルーしてもらって結構ですが思考の刺激になれば嬉しいです。
私には価値観の崩壊がやってきてます。
本当にそれは善でそれは悪なのか
本当にそれは否定すべきものなのか
本当にそれは正しいと言えるのか
10人中9人が納得するであろう正論を私は持っていますが
正論を伝えることが正しいとは限らない。
私の持っている正論はある一定の価値観の中でしか機能しない。
社会人として
大人として
子を持つ親として
あるいは
日本人として
現代人として。
この正論は
自由人や
外国人や
若者や
もちろん
縄文時代や
平安時代の人にとっては正論ではないでしょう。
社会人として
大人として
子を持つ親としての
「優しさ」
から正論を伝えない場合もあるでしょうし
教育のためにと、あえて厳しく伝える場合もあるでしょう。
こんな風に、「優しさ」ひとつとっても二通りの選択肢が出てきます。
価値観はほんと多様。
なにか不都合なことが起こったとき…
子どもは自分の都合の悪いことは話さない。
事実を自分の都合のよいように歪めて親や先生に話す。
話してるうちに、歪めた事実が真実のように思えてくる。
ってことをふまえて子どもの話を聞かないと
先生や学校や相手を糾弾してしまうことになります。
よくよく聞いたらうちの子が全面的に悪くて平謝り、
とか
こちらが謝ったものの、子どもが歪めた情報を鵜呑みにした相手の親の誤解だった
なんて経験は「母親あるある」じゃないでしょうか?
多角的な面から物事を捉える必要性はさんざん経験してきましたが、
そもそも、
こんなことが何故起きるのか。
怒られたくない
否定されたくない
間違いを指摘されたくない
という思いが事実を歪めて伝える行為になってしまうのですが(正当化ってやつね)
善悪があるから悪だと怒られる
良し悪しがあるから否定が生まれる
正解不正解があるから非難される
その二元化が緩もうとしています。
本当にそれは善でそれは悪なのか
本当にそれは否定すべきものなのか
本当にそれは正しいと言えるのか
学校や会社があるおかげで
一定の価値観に統一できていた
とも言えるし
学校や会社があるせいで
枠にはめられ自由さがなかった
とも言えます。
ほら、ここでも価値観の多様化。
二元化が緩んだ価値観はどうなるんだろう。
私の息子は担任に付き添われ保冷剤で頬を冷やしつつ帰宅したことがあります。
クラスメートの男子に殴られたとのこと。
クラスにドアや水筒をベロベロ舐める癖のある子がいる(衛生的にどうかと思う)
そのせいでベロベロくんの近くには唾がよく落ちている(衛生的にどうかと思う!)
それを友達が踏みそうになったので
「唾落ちてるで」
と息子が教えた
「唾ちゃうわ!」
とベロベロくんが殴ってきた
(たまたまそれはこぼれたお茶だったらしい)
ベロベロくんのメンタル状態はさておき、
ただの誤解で起こったことだし
殴られたところも今は痛くないから
と
息子は怒りも悲しみも悔しさもまったくない様子でした。
オロオロしていた担任の先生は
相手の親に謝罪させぃ!
とか私が言わないことにほっとした様子で帰ってゆきました。
ベロベロくんは普段ベロベロしてるという自分に不都合なことは親や先生には言わないでしょう。
アイツが失礼なことを言うからアイツが悪いんだ、なんて弁解したかもしれません。
もしかすると息子も自分に都合の悪い何かを省略して私に伝えているかもしれません。
思うことはいろいろありますが
殴られたことをただ受け止めただけの息子に、
このときばかりは敬意を払いましたよ。
ドアをベロベロ舐めることも悪ではない
唾を落としておくことも悪ではない
(衛生的にどうかと思うけど!)
自分の誤解も
相手の暴力も
責めることではない
ただ起こったこと
そして終わったこと
善も悪もなくただ事実があるのみ
と受け止めると
感情が乱されることなく
とても穏やかに生きられるのかもしれません。