かつて、この世の全ての知識を手に入れたいと願った時期があった。
膨大な量の知識が広がるこの世界に、心を躍らせたことがあった。

しかし、ほどなく思い知らされることになる。

自分の記憶力の限界と、

無限とも思えるほど膨らみ続ける知識の泉に直面するたび、途方に暮れるのである。

一人で何もかも手に入れようとするなど、傲慢な考え方だと思うようになる。


『知識』というものに対し、対照的な考え方をした人物がいた。
夏目漱石と小林秀雄である。

夏目は典型的な悲観主義者であり、

この世の知識のあまりの多さに愕然とし、虚無感に苛まれたという。

一方、小林は典型的な楽観主義者であり、無限の知識の泉は言い換えるなら、

自身の知識欲を満たす機会も多分に存在すると捉えていたという。


確かに、わからないことがわかるようになることは喜びに繋がる。

そのわからないことが、ほぼ無限に存在するということは、

それを知るときの喜びもほぼ無限に存在するということになるだろう。


だが、私にとってこの二人の考え方は、何の解決策にもならない循環論にすぎない。

重要なのは、二人に共通する知識への渇望・飢え・欲求である。


自らの知識欲に素直に従えばよい。
ただ、それだけのこと・・・

そこには悲観主義も楽観主義も必要ない。
ただ、それだけのこと・・・