自分のどういう意識がどういう現実を創っているかの続き。
そう観るとそうなる。
これはその通りだと思う。
気の毒な人、かわいそうな人、なんとかしてあげなくてはいけない人がいる、、、?
知り合いだったり、友達だったり、はたまた親や子供など家族だったり。
なんとかしてあげられるのは自分しかいない。と思ったり。
してあげたければしてあげたらいいのだけれども、、、
本当は、してあげるという直接的な行為だけが役に立つことで素晴らしいわけではないということ。。。
なぜなら、、、
自分がそう観ているのだから、そういう現実はつぎつぎと創られるのだから。
本当にしてあげたくてしているのか、
恐れや不安に突き動かされているとか、
しないと罪悪感が出てくるとか、
本当はしたくないけれども、人間としてそうするのが良いことだからとか、
子供のころから聞かされてきたことをそのまま信じ続けていたり、
してあげる自分が素晴らしいとか、
ひとに後ろ指をさされたくないとか、
心の中を丁寧に見ていくといろんな思いが渦巻いていたりする。
ましてや、
病気の人や死にゆく人を前にして、
直接的な手助けをしないことや、
できる限りの延命措置をとらないことは、
見捨てる様でその罪悪感に耐えられなくて動いてしまったりもする。
死とはなんなのかという理解が必要なのかもしれないけれども、
はっきりわからないでも、なんとなくの感覚でも、
長く生き続けることだけを良しとする考え方から抜けることをしてもいいのだと思う。
そのように意識が変化するとまた、
現実は違った展開となり、、、
その観察者(自分)の意識と呼応したものとなっていく。
ということなのだと。
そしてまた、理解が進んでいく。
病気で大変そうに見えるひとがいるとするなら、
その方と、観ている自分との共同創造なのでしょう。
その方が、病気を通して体験したいことがあってそうしているという視点を持てたなら、
そして、それを問題視したリ、
何もできない自分に罪悪感を持つことなく、
ただそうなんだね。
と観ていることができたなら、
双方にとって、さらにその周囲にとっても、
助けになる優しい在り方なんじゃないかと。
なにより、それを観ている自分のために望む現実はなんなのかということを知るための出来事なのだ
という視点を持てたなら、、
現実も分かりやすく、そのように穏やかな展開となってくると。
今は思っているの。
医療従事者だった時には、医療従事者をやめたあとでも、
際限なくつづく病気のドラマと、死への恐怖の渦巻いた世界を観ていたのだけれども。。
これからは、そうじゃない世界が広がるのを観ていきたいなと思うのです。。
窓辺にお花を干してみました
ちょっと涼しくなって、さわやかな風が吹きぬけています
遠くに海