最近どこへ行っても街角には震災の義援金を呼びかける人びとを見かける。
マスコミにいたっては「頑張ろう」、「つながろう」、「日本は大丈夫」、果ては「生きる勇気を与える」というのまである。いったい自分は何サマのつもりなんだろう。結局は自分ひとり良しとするオレ様になっているだけではないのか?そう言っている本人だって、明日事故にあって命をおとすかもしれないし、癌を宣告されて余命数ヶ月ということになるかもしれない。
「頑張ろう」と言う言葉がその当人の内のどのあたりから出てくるものなのか、洞察してみると何ともお寒い思いにとらわれてしまう。
この国に情報はあふれているが、そのひとつひとつをじっくり手に取ってみると軽薄なものであったり、その場しのぎの言葉であったりすることがほとんどだ。
人が生きるということの本質的な視点が欠落しているという意味で何とも頼りない。
人が生きるということは自分を離れてあるものではない。
人が生きるということは自分が生きるということ以外にあるものではない。
突き詰めれば、人が生きるということの内実はひとりびとりが自ら物事や人を見る目を養い自分で
身につけていくしかないものだ。こんなに情報があふれているのだから、自分に役立つ情報を見つけ出しさえすればそれですむ、という安易な発想が一むかし前に比べて格段に増えた。
インターネットをはじめとする情報化時代の弊害ということもあるだろう。
つまり人が生きるということに真摯に向かい合うということに、現代の人たちは確実に怠惰になったのだということも出来る。
人が、自分が生きるということにまともに向かい合って生きてこなかった人がどんなに美辞麗句を弄しようとそれは虚言でしかない。思慮深さを欠いた人びとがどんなに「頑張って」と声をかけようが、かけられる側にはうつろに響く。
それが現実というもののいつわりのない厳粛な姿でもある。
その意味で、この震災は被災者だけでなく被災者であることを免れた人びともまた試されているのだ。
この震災で被災者がみせた冷静で忍耐強い対応は、世界の人びとをおどろかせた。
過酷な現実のさなかにあっても、過ぎ去ったことは過ぎたこととして
現実を受け入れ、着実に勤勉に事態に立ち向かっていく。
これは私たち日本人のDNAのなかに刻まれたすぐれた資質ともいえる。
それと同時に、この国の政治家たちのあまりに無力無能に天を仰いで慨嘆せぬ日はない。
今日の新聞のコラムにある識者が語っていた言葉が印象的だった。
いわく「政治家のだらしなさには私たち日本人ののだらしなさが反映している」
危急のときには、私たち日本人がみせる結束力、集中力、忍耐心は一級のものがある。
しかし喉もとすぎれば熱さ忘れてしまうのも、日本人のDNAのなかに深く刻まれた傾向といっていい。
なんとかこの危機を乗り越えたとき、まるで何も学ばなかったかのように時流に流される日本人の
姿をみることにならないかと危惧する。
なにごとも無かったかのように、平成の開国とかメディアの過度なイデオロギー傾斜に容易に取り込まれていくあの日常がもどってくるのではないか、そしてまた空しい繁栄に埋没する日々が日本の原風景のようによみがえってくるのではないか。
そして戦勝国が敗戦国に押し付けた憲法、国の根底から機能不全にさせる憲法を能天気に受け入れ
砂上の楼閣の上に安住して恥じぬ日本人の姿はさらなる災厄を自らに招き寄せることにならないかと
危惧する。






はっきり言って信用できないし、もう既に事態は一企業の対処能力をはるかに越えてしまった。
原発の管轄権をすぐに東電から取り上げなければ、間違いなく世界的な大惨事に発展する。
放射能水を垂れ流す海洋汚染は環境テロだとする海外の論調も高まって来ている。
このままだと日本は被害者から加害者になってしまう。
テロ国歌となってもよいのか。
すぐに政府は超法規的処置として、東電を当事者から除外し、政府が全責任を持って
事に対処しなくてはならない。
この国のメディアには大スポンサーである東電から莫大なお金が流れているのだから、メディア報道を
うのみにしていると、あのミドリ十字の事件と同じ過ちを繰り返すのは明らかだ。