日本代表のポーランド戦での 0 - 1 で負けているにもかかわらず、終盤にパス回しの時間稼ぎでの一次リーグ突破について世界各国から非難を浴びているけど、日本代表は『ドーハの悲劇』などでワールドカップ出場さえできなかった時代に比べれば格段の進歩だ。
では、その大きな転換点となった『ドーハの悲劇』を振り返ってみよう。
【 ドーハの悲劇:1993年 ロスタイム17秒の悲劇 】
ドーハの悲劇の舞台は、1993年10月28日に、カタールのドーハで行われた1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会のアジア地区最終予選。日本は直前の韓国戦に勝利し、最終日の対イラク戦に勝てば、悲願のW杯本戦出場を果たすことができた。この日、夜遅いテレビ中継を多くのファンが固唾を飲んで見守った。
前回予選で世界への道の険しさを改めて思い知った日本だったが、94年米国大会予選までの4年間に、代表チームをめぐる環境は大きく好転した。日本初のプロサッカーリーグ・Jリーグの発足。オランダ人監督、ハンス・オフトの就任。三浦知良ら新世代の選手たちの台頭と、ラモス瑠偉の帰化。サッカー人気の沸騰。これらの追い風を受けて、92年夏に北京で行われたダイナスティーカップ(日韓中と北朝鮮が参加)と、同年秋に広島で開かれたアジアカップで相次いで優勝。93年春のW杯1次予選も余裕で突破し、日本は有力候補として、同年10月、アジア最終予選が開かれるカタール・ドーハに乗り込んだ。
1回戦総当りのリーグ戦方式で行われた最終予選では、上位2カ国に出場権が与えられる。日本はまず、中東の強豪・サウジアラビアと対戦し、慎重な戦いの末、0-0の引き分け。これは想定内の結果だったが、次のイラン戦は1-2で痛恨の敗戦。この時点で参加6カ国中最下位に転落した。
しかし、ここで日本は息を吹き返す。
次の北朝鮮(3-0)、韓国(1-0)に連勝し、一転して首位に躍り出た。ただ、この2試合でもっと得点するチャンスがありながら生かせなかったことが、イラン戦の敗戦と併せ、最後に響いてしまう。
勝てば本大会出場が決まるイラク戦、日本は開始早々に三浦が先制。後半にいったん同点とされたが、中山雅史のゴールで勝ち越し、本大会出場は決まったかと思われた。しかしロスタイム、不用意なパスミスから逆襲を許し、CKからヘディングシュートで同点とされてしまう。この結果、勝ち点7(当時は勝利の勝ち点は2、引き分け1)のサウジが首位、続いて勝ち点6で韓国と日本が並んだが、得失点差で韓国が上回り、日本は涙を呑んだ。世に言う”ドーハの悲劇“である。
W杯アジア最終予選:日本2-2イラク
1993年10月28日◇ドーハ・アルアリ競技場
オフト監督の作戦がズバリ当たって、日本は開始早々に先制した。得点を挙げるために投入されたスリートップで、前半5分のゴールだった。長谷川から中山につなぎ、再び走り込んできた長谷川がシュート。クロスバーに跳ね返ったが、カズが頭で押し込んだ。今大会、日本が挙げた最も早いゴールだった。
しかし、日本の攻勢は前半の得点場面の時間帯だけだった。暑さと、深い芝。ボールは回らず、こぼれ球はことごとくイラク選手に拾われた。守勢に立たされ続けた後半9分、ついに同点に追いつかれた。中山の勝ち越し点も、無念さを助長するためのワンシーンとなってしまった。
日本代表は直前の対韓国戦に勝利し、この対イラク戦に勝てばW杯本戦へ出場できた。
日本チームは前半にカズの先制点でリード、しかし前半終了間際に追いつかれた。後半に入ってゴンが得点、日本が再び1点リードしてロスタイムを迎えた。武田のパスがイラクに奪われた。たちまち速攻を受ける、あぶない!日本はからくもコーナーキックに逃れた。がんばれ、がんばれ、あと少しだ。
日本は何とかこのピンチをコーナーキックに逃れたものの、その一瞬のほっとした隙を突かれて始まったイラクのコーナーキックはロスタイムでありながらショートコーナーだった。ロスタイム0秒となった最後の瞬間、意表をつかれた日本ディフェンスは、完全に後手にまわってしまい、17秒後にイラクに同点弾を許してしまった。
イラクのコーナーキックは、あっ、何とショートコーナーだ。
と誰もが思った瞬間に不意をつかれた。
一瞬、日本選手の動きが止まったように見えた。
デフェンスの対応が遅れた。
そして悪夢の同点ゴールが突き刺さった。
じょ、冗談だろ?
そんな馬鹿な、何かの間違いだろ?
茫然自失。日本選手たちがピッチに崩れ落ちた。「事実は小説より奇なり」どころの現実ではない。ほんとうにこんなことがあっていいのか。
まもなく無情のホイッスルが鳴り響き、試合終了。やがてテレビの画面は、アナウンサーと幾人かのOBや解説者たちが居並ぶスタジオに切り替わった。ところが誰ひとり口を開かない。顔色を失い、言葉が出ない。重苦しい沈黙ばかりが続いた。
夢は、ロスタイムの中に散った。日本サッカー界の悲願であるW杯出場の道が、最後の最後に断たれた。カズ(三浦知良=26、川崎)中山雅史(26=磐田)のゴールで2-1とイラクをリードして迎えたロスタイム。まさかの同点ゴールを喫して引き分けた。日本は、勝ち点を7に伸ばしたサウジアラビア、同6点の韓国には得失点差で抜かれ、94年米国W杯出場を逃した。日本サッカー界が待ち望んだ新しい歴史の扉を開くことはできなかった。
あと1分、日本の米国への道は閉ざされた。45分17秒。ロスタイムだった。イラクの最後の攻撃と思われるコーナーキックをいったんはクリア。しかし、再び右サイドを折り返されたセンタリングは、イラク選手の頭を経て、ゴールネットへ転がった。
日本の攻撃の時間はもう残されていなかった。2―2の同点に追いつかれてから、わずか49秒。審判の笛は非情だった。他競技場の結果を知らないカズが「ダメ?」と関係者に確かめ、グッタリ座り込んだ。中山のゴールから20分間。W杯は、はかない夢だった。日本サッカー界の悲願はカタールの砂漠の辰虫気楼(しんきろう)となって消え去った。「歴史を変えてみせる」と臨んだ柱谷主将が号泣した。清雲栄純コーチ(41)に肩を抱かれ、ロッカールームへ引き揚げた。オフト監督とラモスは、言葉もなくたたずんでいた。
この結果、日本は得失点差で韓国に抜かれ、初のW杯本戦出場の夢は叶わなかった。
ただこの試合で試合内容は完全にイラク代表がいま見れば押していた。ゴンの勝ち越し点は明らかにオフサイドであった。また当時のイラク代表はアジア最強の呼び声が高かったが、かなり露骨な審判の判定に苦しめられていた。イラク代表はそれでも日本代表に勝っていれば本大会出場だったが日本と同じく引き分けで本大会出場を逃し、当時のサッカー協会会長のフセインの息子によって鞭打ちなどの拷問を受けたことが後に明らかになった。
2勝1分け1敗。
日本は、韓国に得失点差でわずか2点及ばず、3位に終わった。公式戦29連勝まで続いたカズの不敗神話も、終わった。プロ元年。オフト監督の下に集った22人の戦士たちは、これまでの日本サッカーの歴史をすべて塗り替えた。ダイナスティ杯、アジア杯、アジア・アフリカ杯。日本が挑戦してことごとく跳ね返されたタイトルを、W杯出場以外は残らず手に入れた。この大会でも、34年ぶりに宿敵・韓国に完封勝ちした。史上最強の日本代表だった。
試合終了から30分後、日本サッカー界に新しい1ページを記した男たちが、無言でスタジアムから引き揚げて行った。98年W杯フランス大会を目指して、新しい歴史の始まりだ。「僕の仕事は日本代表をW杯に連れて行くこと」と宣言し、これを最後に代表からの引退を決意しているラモスの後ろ姿が寂しげだった。
あのとき、試合終了のホイッスルが鳴るまで残り何秒だったのだろう。
これで悲願のW杯本戦に出場できる! 多くのサッカー・ファンが待ち望んでいた歓喜の瞬間がすぐ目の前に迫っていた。しかし、最後の、最後のその時を前に、勝利の女神は突然背を向けた。
そんなばかな! あり得ない! 悪夢なら覚めてくれ!
後に「ドーハの悲劇」と呼ばれるようになったこの悪夢の試合は、ほんの一瞬の隙の恐さをあらためて教えてくれた。ただ、今思えば、その前兆は少し前の時間帯あたりからあったような気もする。勝利の女神は、その辺を見て最後の判断を下したのかもしれない。
ちなみにドーハの悲劇とは当時の「週刊サッカーマガジン」がこの試合の特集をしたときの見出しからきた。あれから10年後の最近の特集記事で、「ドーハの悲劇」という名称に対する反対の声に答える形で、「なぜドーハの悲劇なのか?」という記事を組んでいた。
この話題のタイトルをいまさらながら後悔している、負けないではなく、勝つ!としなければならなかった。
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ドーハの悲劇:1993年
マイアミの奇跡:1996年五輪での西野朗監督率いるサッカー日本代表の戦い。 >> マイアミの奇跡とは、1996年アトランタ五輪の初戦で、日本がブラジルを破った試合。これも伝説となったサッカー日本代表の戦い。
このアトランタ五輪のブラジル戦で『マイアミの奇跡』を起こして快勝した西野ジャパンも、僅かな差で決勝トーナメント進出を逃してしまっている。
こういう苦い経験から、西野朗監督は執念の決勝トーナメント進出を決めたかったのではないか!