宮本武蔵が初めて果たし合いをし、勝利を得たのは、わずか十三歳の少年時代だったという。
彼はこの時、戦うことの充実感を、“戦いによって誇りを得る”という武士の生き方を、知ったのだろう。
それ以来、彼は「武士=戦う者」として自らを厳しく律し続けた。剣の腕を磨き、いつまでも臨戦態勢の気概を忘れないこと。
武蔵が生涯に経験した果たし合いは、六十余度。そのすべてに一度として後れを取ったことはなかった。
その中でも特筆すべきは、二十一歳の時の戦い。1604年、数十人の敵に囲まれながら、その包囲をかいくぐり、見事に生き延びた「吉岡一門との決闘」だろう。
武蔵はこの絶体絶命の状況下で、決闘を見届けるために一門に連れて来られていた吉岡家の跡取り少年・吉岡又七郎を、いきなり斬り倒したのである。武蔵が年端もいかぬ少年をいきなり斬るとは、誰もが予想だにしなかった。
一門は慌てふためき、その動揺した隙をついて、武蔵は素早く逃げきったのだ。
「子どもをいきなり斬るとは、なんと残酷な」と武蔵を揶揄する声も、当然あった。
だが、それが武蔵の武士道なのだ。
勝つためには、どんな非情にもなる。
負けないためにあらゆる手を尽くす。
「勝利の合理性」を徹底的に貫くのが、宮本武蔵の武士道なのである。
天才剣士・佐々木小次郎を倒した有名な「巌流島の決闘」は1612年。武蔵二十九歳のことである。
佐々木小次郎は「物干し竿」と異名を持つ長さ三尺一寸(約1メートル)もの大太刀を自在に操る剣豪だった。
武蔵はこれに対するため通常の刀を用いず、舟の櫂を削った無骨な木刀を急ごしらえした。
その自家製の木刀は、小次郎の大太刀を僅かに超えた長さだったのだ。
武蔵がそんな道具を持ち出すとは、小次郎は全く考えもしなかった。
彼はその木刀の長さに翻弄された。
そして、一瞬の隙をついた武蔵が振り降ろした木刀によって、頭を叩き潰された。
体裁よりも機能性で戦いの道具を突き詰める。
そんな武蔵の合理的な武士道が導いた勝利だった。
こうして三十代に入る頃には、武蔵は「最強の剣豪」の栄光を手に入れていた。
日本中の誰もが武蔵を恐れ、敬った。
しかし、その栄光は決して、彼の人生の成功には結びつかなかった。