みなさんこんにちは、やっと未来がみえはじめたももちこですウインク

先ほど、プロフィールを変更しました。

でも、やりたいことの進行状況で内容がちょこちょこ変更すると思います。

 

 

今回のブログは、私の過去を振り返ってみました。

そしたら・・・、あらぁ~、私、結構、面白い人生を送ってるんじゃないのォ~。

でも、残念なことにそれをお伝えする文章力が拙すぎる!笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

今回はとにかく長いっ!

まぁ、お暇な方は最後までどうぞお付き合いください。

 

 

 


【幼少期~小学生】
私の母は私が生まれる前から統合失調症でした。
妄想・幻覚・独語・・・。

でも、それが普通の生活だったので、私は特に大きな違和感も感じていませんでした。

そんな母は一人っ子の私のことを大変溺愛して可愛がっていました。
その気持ちが大きすぎたのか、私がいじめられないよう見張らないと心配だからと、私の通う小学校に授業参観日でもないのに度々やってきて、教室の後ろで授業をじっと見ていました。

(オー マイガッびっくり


そして、小学3年生の時、母の行動が徐々にエスカレートしだし授業に支障をきたすようになったのです。
担任の先生が帰宅するよう母に説得しても応じないため父に連絡をして、

大声でわめいている母を近くの派出所のお巡りさんと父とで何とか車に乗せて、

そのまま精神病院へ入院することになりました。
そんな様子を見て、私は悲しむどころか心の中で『あぁ、これでやっと父と二人で安心して生活できる』と、そうつぶやいていました。

(なんちゅー冷たいお子様なのかしらニヤリ

それから、入院した母の代わりに父が家事をするようになりました。
私は、小さいころから父のことが大好きで、どこに行くにもついて回りました。

何でも知っているお父さん、たくましくて頼りになるお父さん。

何でもできるお父さん。怖いけど優しいお父さん。

母がいなくても少しも寂しいと感じることはなく、むしろ父と二人だけの生活が楽しくて仕方ありませんでした。
父は一人娘の私のことを不憫に思うあまり、私に家事を手伝わすことは全くなく、

私は少しずつわがままで思いやりのない子どもに育っていったのです。

(いやいや、そんなの誰かに教わらなくてもお父さんを大切にしようよプンプン




【中学生のころ】
結局両親は離婚することになり、父が私の親権を持つことになりました。
お別れを伝えるために数年ぶりに病院で面会した母は、薬の副作用で呂律がまわりにくくなっていました。

母は帰るとき『元気でね、元気でね・・・』と泣きながら病院の玄関でいつまでも私に手を振り見送ってくれました。

しかし、そんな母の気持ちとは裏腹に、私はさほど悲しいという気持ちにはならず、『これで嫌な思いから解放される』とほっとしたのです。

(キミ、極悪非道やねムキー


小学校の卒業を迎える頃、私には母親の愛情が必要だろうと、父が知人の方と再婚することになりました。

父も仕事と慣れない家事に追われる、そんな生活に疲れたのでしょう。
相手には3人のお子さんがいて、皆とてもいい人達だったのですが、

その頃の私は大変わがままで甘やかされて育った上に、再婚したことで父を取られてしまうような感覚になり、新しい家族に心を開くことが全く出来ず、優しく接することすらしようとしなかったのです。

しかも、父が保障人になっていた相手が行方をくらまし、数千万円の借金を背負うことになったのですが、継母は全くその事実を知らされていなかったことから、次第に夫婦喧嘩をすることが増えていきました。

(チーン絶望 最悪やね)



【高校生のころ】
父が転勤のため離島へ赴任することになったのですが、私は高校の進学と重なってしまったことから、親元を離れ叔父夫婦の家に預けられ、そこから高校へ通学することになりました。

結局、新しい家族とは3年間しか生活できず、ずっとわだかまりは解けずにいました。
わがままで勝手で自己中心的な私は、叔父夫婦の家でもぎくしゃくしていまい、卒業して叔父夫婦の家を出るときには『せいせいするわ』と言われてしまうほどでした。
(よくぞ非行の道に走らなかったもんだえー



【働きながら短大へ】
楽しい思い出もほとんどない地元を離れて自由になりたかった私は、とにかく一日も早く自立したいと思うようになっていました。
でも、父の借金のために進学は難しい・・・。
そんな時、働きながら歯科衛生士科がある短大に通える制度があると学校に紹介され、こんなチャンス二度とないと思い、県外へ出ることに大反対する父をなんとか説得して、ついに脱出に成功したのです。
(これから自由が待っている笑い泣き



【短大卒業~20代のころ】
地元を離れての寮生活はとても楽しく友人もたくさんできて、充実した日々を送っていました。
しかし、田舎から出てきて世間を知らないうえに、まともに恋愛をしたこともない私は、学校を卒業し就職するとすぐにろくでもない男性にひっかかり、彼の借金を返済するために自らサラ金を背負いました。

しかも相手は自分が思うようにならないと暴力をふるうようなDV男でした。

殴られたことで鼻の骨を折ることもありました。
当時はそんなことをされても彼に尽くす献身的な彼女、という自分に酔いしれていたのです。
(冗談みたいなホントの話よウインク


しかし、そんな生活が長く続くはずがありません。

ある日、いきなり激しい揺れが私を襲いました、阪神淡路大震災です。
DVが怖くてなかなか別れを切り出せなかった私ですが、震災がきっかけとなり、

やっと彼に別れを告げることができました。

そして、女性が一人でも生きられるために看護師を目指そうと、一からやり直す決心をしました。

昼間は歯科衛生士として働き、夜は寝る間を惜しんで居酒屋でアルバイトをしながら学費を稼いで、空いた時間は受験勉強に励みました。

そして、無事に准看護師を経て高等看護学校に入学することが出来たのです。
(やっと目覚めたのかいなぁ~、遅いわぁ~むかつき

 


【30代】
無事に国家試験に合格し、看護師として働き始めてすぐに素敵な方と出会い結婚しました。

結婚を機にぎくしゃくしていた父やその家族とも、少しずつ話す機会も増え始めました。
しばらくは仕事が面白くて子供のことはあまり考えていなかったのですが、なかなか授からないので病院を受診したところ、右の卵巣が倍以上に腫れていて手術をすることになりました。
腫瘍は良性でしたが、その後もなかなか妊娠しないのでついに不妊治療に踏み切りました。
そして、人工授精の結果、やっと今の娘を授かったのです。


しかし、そんな幸せもつかの間、娘の出産のために田舎から出てきた父は、私が産気づいた夜に体調が急変し、私が入院している病院へ救急車で運ばれて、娘が産まれたその日に突然息を引き取りました。

そして、翌年には実母も亡くなりました。

 

母は、私と別れてから最期まで精神病院で一生を過ごしました。

当時、二度と面会に来るはずもない娘を思い、病棟で毎日朝からドアの前に立ち、夕方になると看護師さんに連れられてベッドに入る。

そんな生活が日課となり何年も私を待ち続けていたそうです。

しかし、皮肉にも長時間立ったままの姿勢でいたことが原因となり、肺塞栓ができてしまい母の命を奪うこととなるのです。

 

ある日の夜中に母がトイレに行ったところ、なかなか呼び出しブザーがならないので看護師さんが見に行くと、用を済ませた母は自ら車いすに移り、座ったままの状態で息絶えていたそうです。

その表情はとても穏やかで苦しむことなくまるで眠ったようだったと、母方の伯母から聞きました。

えーんえーんえーんえーんえーん

 



【40代】
そろそろ二人目を考えて人工授精、顕微授精を何度か行いましたが、結果は出ませんでした。
残念ですが、金銭面・年齢からも不妊治療を断念することにしました。
未だに私は、突然父を突然失った悲しみに耐えられず毎日泣いてばかりいました。

その悲しみのほこさきは夫に激しくぶつけられました。
そんな私にいつでも夫は優しく接してくれたのですが、その裏でサラ金に手を出していたことが分かりました。
『過去に交際していた相手の借金で私が苦しんことを知っているのに、なぜこんな仕打ちが出来るの!』と、私は夫を追い詰めるように日に日につらく当たるようになりました。

そんな私から逃げるように夫は去り、結局離婚することになりました。

離婚に至る原因はほかにもいろいろありますが、あげればきりがありません。

もちろん夫婦のことですから、どちらか一方に非があるとも思っていません。

私にも至らない点がたくさんあったのだと、今になって思えるようになりました。


私は娘が3歳の時シングルマザーになりましたが、看護師だったおかげで娘を養うことへの不安はありませんでした。

(もう少し彼の話を聞いてあげたらよかったのにショボーン


そして数年後、今の夫と出会い再婚することになりました。

 

 

 

【50代】

娘は実の父親に会いたいとは言いません。

今のお父さんが自分のお父さんだから会いに行ったら、今のお父さんが悲しむかもしれないからだそうです。

私が子供のころとは似ても似つかないくらい優しい子です。

 

元夫と離婚をするときに養育費などの条件についても公正証書で交わしましたが、これまでにも1円も払われたことはありません。

娘の誕生日も、小学校の入学祝も、七五三も、クリスマスも・・・。

プレゼントすら送ってくれたことはありません。

公正証書があるのだから、元夫に取り立ててもいいのですが、その事実を娘が知った時きっと悲しむでしょうから、このまま何もしないことにしました。

 

ありがたいことに養育費を支払ってもらえなくても、贅沢をしなければ十分幸せな生活が送れています。

(めでたし、めでたし照れ

 

 

 

 

 

ここまでお読みくださってありがとうございました。

今回は読んでいただいている方へというよりは、自分の自己満足のために書いたようなものです。

これから新たなことへ踏み出すにあたり、普段ふれることのない自分の過去をあえて振り返ってみたくなりました。

いろんなことがありましたが、ありがたいことにいつも私は周りに助けられてきました。

 

精神疾患を患っていた母がだいぶ迷惑をかけていたはずなのですが、近所の方や小学校の先生方、そしてクラスの友人たちも、誰一人としてそんな母のことを悪く言ったり、私を仲間はずれにしたりすることなく、何事もなかったかのように普通に接してくれました。

そんな優しい人たちに囲まれていたから、私は社会から外れることなく、ちょこっと人より失敗が多いくらいでここまでやってこれたのでしょう。

 

これからも人との出逢いに感謝し『縁 えにし』を大切に過ごしたいと思います。