慣れた帰り道を、黙々と歩く。

 中学までは地元民だけって感じだったけど、高校からは色んな地域から人が集まるから、当然、帰り道の方角もばらばら。同じ方角に帰る慣れた顔もいるけど、慣れてるだけで親しくはないから、一緒には帰らない。となると、帰宅時は必然的に一人になる。一人だから、当然のように無言で歩いている。

 私は歩いている間、考え事をしている事が多い。帰ったら何をしようとか、夕ご飯は何かなとか、そういえば課題が出てたっけなとか。

 後は、市松さんに何から話そうかな、とか。

 市松さんは、近所で拾った市松人形。ただの市松人形じゃなくて、男の人の物の怪が宿った市松人形。

 見た目は女の子だから、拾った時に男の人の声が喋って正直びびった。でも今は何とも思ってない。ついでに、市松さんが物の怪である事も何とも思ってない。人間の適応能力って凄いもんだと思う。そう言ったら市松さんに随分驚かれたけど……決して私がおかしい訳ではないと、思いたい。いや、別に良いんだけどね、変わった人と思われても。

 考えがあっちへこっちへ飛びながら、ひたすら歩く。慣れすぎて考え事していても道に迷ったりしない。というか家までほぼ一本道だから迷いようがない。車がうっかり突っ込んで来ない限りは道路事情も平和だ。唯一危険があるとすれば、人通りも車通りも少なすぎて、人攫いに遭ったらひとたまりもない事くらい。

 そんな感じで、学校を出てからどのくらい経ったか、通学路も半分くらい進んだかなって所で、私はふと歩を止めた。

 誰かに、呼ばれている気がする。

「――――――っ!」

 聞き取れないけど、誰かがどこかから叫んでいる感じ。でも、辺りを見回しても、人っ子一人見られない。カーブだからかなと思って立ち止ってみたけど、誰かが追って来る気配はない。

「――――さまぁ~っ!」

 ここ二か月くらいで、私は市松さんとの生活に慣れた。ついでに、市松さんを置くようになってから絡まれるようになった物の怪の類いにも慣れた。

 ただ、存在には慣れたけど、扱いに慣れた訳じゃない。

 私はそこはかとなく聞こえてくる声を無視して、全力で走り出した。

 ああ、まだ半分なのよ! 道はほぼ坂道で、アウトドア派ではない私には結構辛い道のりなのよ!

 この行為が全く無意味だってのは、頭の片隅にいる冷静な私がちゃんと理解してた。

 ……だって、相手、空から降って来るんだもん。

「唐子松さま! どうしてお逃げになるんですの」

 頭上から落ちてきたのは、女の子だった。あまりの勢いに慌てて急停止する私。

 市松人形をちょっと現代風に可愛くしたら、きっとこんな風になるんだろうなって感じの子。真っ黒で真っ直ぐな髪、真ん丸の瞳。ぷっくりしていて触りたくなる白い肌。黒地にピンクの振袖には蝶の模様。

 口から出てくる声も物凄く可愛くて、空から降ってきて現在進行形で浮遊してなかったら、衝動的に攫ってしまいたくなるレベルだ(おっと、私が人攫いになってどうする)。

 女の子は歓喜の叫びを上げ、ドップラー効果と共にやって来たと思ったら、私の顔を見るなり、あからさまにがっかりした表情を浮かべた。

 直後。

「何でてめぇみたいなちんちくりんが、唐子松さまの高貴なる香りを漂わせてんだごるぁ!」

「ふええぇ」

 キャラが変わって唐突に怒鳴られた。声に物凄くドスが入ってる。人攫いも黙るレベルの……ヤの付く自由業さん並みに怖い。

「てんめぇ、唐子松さまをどこに隠しやがった! 答えろ。十秒以内、いや、三秒以内で答えろぉ!」

「なっ! ななななな」

 いつも思うんだけど、物の怪ってどちらかといえば影の存在なんじゃないのかな? 人間に見られて動揺するとかないの? むしろこっちが動揺したわよ。こんなにキャラが変わったら物の怪じゃなくてもビビるけど。

 家までの道程はまだそれなりにある。からと言って引き返しても無駄だろうし。周りには誰もいなさそうだし……いや、いたらいたで別の問題が起きそう。

 私は咄嗟に鞄に手を突っ込み、携帯(正確にはスマホ。未だ呼び名に慣れない)を取り出した。間違っても、どんなに間違っても、こんな一歩間違ったら自分の身の安全が地平線の果てまで吹き飛びそうな場で、目の前の女の子を写メろうなんて思ってない。(そもそも、事件だの事故だので動画や写真を撮れる人の神経が私には知れない)

 私は視線を女の子から外せないまま、電話機能を呼び出した。

「あぁ? 人の質問無視して何してんだちんちくりんがぁ!」

 目の前から罵声攻撃。今なら、なまはげに襲われて泣いている子供たちの気持ちが理解出来る気がする。

 電話のコール音が鳴り始めた。殆どよそ見をしながらかけていたから、正確に繋がるかちょっと心配だけど、仕方ない。

『藤崎。どうした?』

 プツッと音がして、聞こえてきたのは冷静な声。料理部の部長、慧羽月司先輩。

 この場合、“料理部の部長”である事はあまり重要じゃない。けど良かった。無事にかかって。

「先輩、お化けに絡まれた時って、どうしてます?」

「ああん? てめぇこのあたしが幽霊だっつーのかどんな目してんだ節穴かぁ!」

 ああ。きっとこの声、先輩まで届いてるな……。

『幽霊に絡まれた時……?』

 スピーカーから流れてくる先輩の声。怪訝な顔してそうな声だ。当然よね。電話して開口一番それじゃあ。

 先輩の家は、神社だ。先輩自身、どうやら幽霊っぽい何かと対峙する力を持っているらしい。だからこの前にも後ろにも進めない状況下、藁にもすがる思いで連絡してみたんだけど。

『無視するか、祓うな』

 非常に先輩らしいお言葉を頂きました……。

『それよりも藤崎。お前随分と柄の悪い女に絡まれていないか?』

 やっぱ聞こえますよねー。

「い、いやぁ、その」

「いつまであたしを無視すりゃ気が済むんだちんちくりん! いい加減にしないと沈めるぞ!」

 この状況下で、どんな言い訳をしたら信じて貰えるだろう……。

『お前の質問は、現在進行形で起こっている事態への対処方法か?』

「えっと……」

『幽霊と言うのは比喩か? 山姥みたいな変質者に絡まれていると言う意味か?』

 そんな理由なら先輩じゃなく警察に電話します……。

『それとも、本当に幽霊に絡まれて困っていると言う意味か?』

 正確にはお化けじゃなくて物の怪(多分)なんだけど、先輩信じてくれるかなぁ?

「……お前から訊いて来たんだから、こちらの質問にも答えろ。適当な答えを探しようがない」

「ふわあああ!」

 電話口と背後からほぼリアルタイムに同じ声が聞こえて、私はびっくりして飛び上がってしまった。さすがの女の子も驚いたみたいで、浮いたままドン引きする。

 姿を現したのは、電話の相手、張本人。部活動時に着ている黒いエプロンをしていなくても、黒っぽい制服のお蔭で、頭のてっぺんからつま先まで黒くろな印象を抱かせる先輩。黒縁眼鏡の奥には、呆れの色を湛えた瞳。

「……先輩、お家こっちでしたっけ?」

「いいや、逆方向だな」

 この人、学校では〈料理王子〉だの〈ドS王子〉だの〈ロリコン未遂王子(あっと、これは私が勝手に命名したんだった)〉だの呼ばれているけど、新たに〈ストーカー王子〉の称号を得た方が良いんじゃないかな。

 何でここにいるの?

「おい! いい加減に……!」

 私が質問しようとするより前に、先輩は制服の内ポケットから取り出したお札っぽい何かを、女の子の額にピッと貼り付けた。

「はうううう~」

 途端に、ふにゃふにゃと地面に落下する女の子。

「で?」

 何事もなかったかのように訊いてくる先輩。

 何が普通なのか分からなくなってきたわ……。



「人違い、か」

「はい」

「なのに突然逆切れされた……と」

「そうなんですよ」

「時に、藤崎」

「何ですか?」

「何故そんなに先を急いでいる?」

 私たちは、喋りながら歩いている。但し、並んで歩いていない。私が圧倒的に前を歩いている。だから、話す時は若干後ろを向かないと声が先輩に届き難い。どうして、そんな歩き方をしているか。答えは簡単。先輩が、小脇にあの女の子を抱えて歩いているからだ。

 〈ロリコン王子〉再来。あの人の隣を歩いて、私も同類だと思われたくない。

 どうやら先輩は、こっちの方角にある神社に用事があったらしいから、〈ストーカー王子〉の称号を辛くも逃れる事が出来たんだけど、でもそれで〈ロリコン王子〉が相殺される訳じゃない。だって、どう見ても言い逃れ出来ない状況下じゃない。どう考えても幼児誘拐。同罪にされたら堪ったもんじゃない。

 まぁ、怪奇的な女の子に絡まれて困っている所を助けて貰ったって事だけは、認めますけどね。

「べっ、別に普通ですよ? 山育ちは足が強くなりますからね~」

 表情を見られないのを良い事に、言葉を濁す私。心の中では冷や汗を流しているし、口元なんか自分でも分かるくらい引き攣っている。背後からは先輩の「そういうもんか……」という、納得してるんだかしてないんだか微妙な声。

「藤崎」

「はい?」

「お前、人違いされる理由に心当たりは? というか、人違いされた相手に心当たりは?」

 先輩の問いに、私は「うっ」と声を漏らす。その声は、運悪く先輩まで届いてしまった。

「……知っているなら教えてやれ」

「いや、あのその」

 あの剣幕で襲われたら、誰でも口ごもると思うんですけど……。

「やっぱり知ってやがるんだな? てんめぇ唐子松さまに何かよからぬことを企んでるんじゃあるまいな? あの方に何かしやがったらただじゃおかね……! きゅぅ」

 私の反応を見るなりぎゃんぎゃん騒ぎ始めた女の子は、先輩から再度お札を張り付けられて機能停止。

「その子のその勢いが家に来るのは、ちょっとなって……」

 振り向きながら苦笑して両手の人差し指を突き合わせる私。先輩は目の前までつかつかと歩いて来ると、ぴたりと停止した。

「家というのは、お前の家の事か?」

 先輩の言葉に、私は自分の失言を認識した。しまったと思うけど、もう遅い。

「そうか……」

 先輩は何かが腑に落ちた顔をして、一人で頷いている。

「お前だったか」

「え? 何がですか?」

 一人で納得しないで下さいよ先輩!

「いや……うちは稲荷を祀ってるんだがな。その稲荷様に、『お前の持つ縁の中にお前達の同類がいる』って言われてな」

 言いながら、私を見る先輩。

 いやいやいや。

「私、霊能力も何もないですよ?」

「いや、そっちじゃない。お前の知り合いの方だ。人間ではないのだろう?」

 あっさりと言われて、かえって私は動揺してしまった。もう少し“タメ”とか“間を置く”とか、そういう時間をくれたら、受け入れやすかったのかも知れないけど。先輩の躊躇いのない直球ストレートな言葉に、自称平凡の私は驚きを隠せない。

「何を驚いている。俺は幽霊と生身を見分ける自信はないが、人間とそれ以外を見分ける術くらい持っている。ここに抱えているのが人間でない事は一目瞭然だし、それの知り合いがお前の家にいるというのなら、それもまた同族なのだろうという推測がつくだけの話だ」

 それはそうかも知れないですけど。なんでまた先輩はそういう事をさらっと言えるんですかね。

「……非現実ですよぉ」

 ぽそっと言ったら、先輩は不思議そうな顔で首を傾げた。それからまた、一人頷く。

「そうか。お前にはまだ非現実なんだな」

 ……またも、自分の失言を認識する私。しかも今度は自己嫌悪のおまけつき。

 そうよね。先輩は神社の息子で。そうでなくても霊力が結構強いらしいし、人間と幽霊の見分けがつかないって言ってるくらいだし。そういうのを日常的に見ていたら、先輩にとってはそれが普通になるのよね。

 大体、幽霊とかが非現実だって言ったら、物の怪である市松さんも非現実だって言っているようなもの。市松さんの存在に慣れ過ぎて、いつの間にか市松さんは市松さんっていう何か特別な枠で囲ってたみたい。

 だけど市松さんも物の怪である事に変わりはなくて、そういう存在を知らない人にとっては“非現実”な存在なのよね。

 ああ、二重で自己嫌悪……。

「すみません」

「何か謝る箇所があったか?」

「え、いや、だって……」

「俺は別にお前を非難するつもりで言った訳ではない。ただその……思ったよりこっち側の奴じゃなかったんだなと思っただけだ」

 先輩は捲し立てるように言うと、ぷいっとそっぽを向いてしまった。台詞から考えると、先輩もきっと苦労の多い人生を送ってるんだろうな~。

 ……って、私の苦労は先輩と比べ物にならないくらいちっぽけな気もするけど。

「で、こいつの探している相手はお前の知り合いで、お前の家にいるのか?」

 無理矢理話題を変えようとしている風にしか見えないんだけど、私は素直に頷いた。

 気まずいのは、お互い様よね。



 家に帰って「ただいま~」って言ったら、当然の如く先輩が「お邪魔します」って言った。そこまでは良い。

 いつもと違う声を聞きつけて居間から顔を出したお母さんに「あらあらあら! 今日はお赤飯かしら?」と訳の分からない反応をされて、私は対応にひと苦労した。まぁ、どんな勘違いをしたか知らないけど、先輩が小脇に抱えている女の子に気付かないでいてくれたのは幸いだったわ。

「すみません。先輩」

「いや。……お前の家は、天然一家だな」

 階段をのぼりながら小声で謝ったら、何だかものすごく引っかかる返しをされた。問い返したかったけど、部屋についてしまった。

「ただいま~」

 私はいつものように部屋に入る。そして、すぐに異変に気が付いた。

 いつもの場所に、市松さんがいない。

 何もなければ、人形の姿でちょこんと机の上に座っているはずなんだけど(ただ、帰りが遅くなると人の姿で窓の近くにいる事も多い)。いる場所が違っても、部屋から出る事はない。だって、市松さんが家にいるのを知っているのは、私だけだから。

 なのに、市松さんがいない……。

「市松さん?」

 何だか胸騒ぎがして、私は市松さんの名を呼んだ。

「唐子松さまぁ? いらっしゃいますの? いらっしゃいましたらお返事して下さいまし!」

 先輩の腕の中で、女の子がまたも騒ぎ出す。どうやらお札っぽい何かを剥がしてあげたみたいだけど、その瞬間からこの騒がしさ。勘弁してほしい。騒がしいのって、苦手なのよね……。

 でも、女の子が騒ぎ出した瞬間にガタッ! って音がして、それで私は市松さんが部屋の中にいる事を認識した。だって、その音クローゼットから聞こえたし。あの中には突然倒れるようなものは入ってない。

 私は、先輩が女の子に札を貼り付けたのを確認して、そっとクローゼットに近付いた。そのままそっと取っ手に手を掛けて、恐る恐るクローゼットを開ける。

 ほんのちょっとだけ開けた隙間から、市松人形が座っているのが見えた。ただ、普段は無表情に見える市松人形の顔が、今日は縦線でも入ってそうなくらい青く見える気がする。

「市松さん……?」

 呼び掛けてみるも、返事なし。

「唐子松さまぁ? いらっしゃるのでしたらお返事なさってぇ!」

 背後から聞こえたキンキン声に、私はびくっと体を痙攣させる。

 どうやら、女の子は相当市松さんに会いたいらしい。覇気だけでお札を吹っ飛ばして喚き散らしている。先輩の腕からは逃れられないみたいだけど、足が物凄い勢いでバタ足をしている。

 先輩はと言うと、非常に苦い顔をしながら制服から新しくお札っぽい何かを取り出して、部屋の扉にビタン! と貼り付けた。

「何ですか? それ」

「この声が下に聞こえたら困るだろう?」

 それは確かにそうだ。お母さんが色んな意味でびっくりするに違いない。という事は、今先輩が使ったのは防音効果のあるお札?

「……何でも持ってますね」

「まぁ、いざという時用にな」

 私が日常的に使用している部屋で、先輩にとっての“いざという事態”が起こっている。

 ……なんでだろ、切ない。

「さっ、ささささささ咲?」

 クローゼットから震える小声が聞こえて、私は振り返った。そしてちょっとぎょっとした。

 市松さんが、人形の姿のままカタカタと震えている。これ、市松さんじゃなかったらホラー過ぎて腰抜けるレベルに怖いんだけど。

「市松さん?」

「そっ、そこに、きっ、金糸蝶がいたり、しないよな?」

 この反応。もしかして、連れて帰ってきちゃいけなかったのかも知れない。と思ったけどもう遅い。

「聞こえましたわよ! 聞こえましたわよ唐子松さま! わたくしを呼ぶ声が聞こえましたわ! ええ、ええ! 金糸蝶はここにおりまする! わたくしはここにおりまするわよぉ!」

 もはや超音波レベルと言っても過言ではないキンキン声に、人間組は耳を塞いだ。良かった。先輩が先手を打ってくれて。これはお母さんどころか近所迷惑レベルだわ。

「いいい市松さん……」

 私も市松さん並みに真っ青になりながら、耳を塞いだままクローゼットの中を見つめる。

「な、なんか、ごめんね?」

「え、あ、いや、咲のせいではないのだが……何故あやつがここに?」

 私は、帰って来るまでのプロセスを簡単に市松さんに説明した。勿論、その間も背後からはしきりと超音波攻撃が続いている。

 先輩は早々に根を上げて、私に許可を取ってから(この辺、中途半端生真面目の紳士な所だ)、女の子……”きんしちょう”ちゃんを、ベッドの上に放った。すぐ動き出すんじゃないかと思ったら、”きんしちょう”ちゃん、いつの間にか白い何かでぐるぐるに巻かれてるし。さすが先輩、ぬかりない。

「そうか……不可抗力と言うやつだな。それならば仕方ない」

 市松さんは諦めた風にそう言って、私に下がるよう促した。私はクローゼットをもう少し開けてから(ああ。今日だけで耳が死んじゃうかも)、後退する。その間に市松さんは人形の体でずりずりと前に出てきて、段の縁からふわりと人の姿に変わった。

「なっ……」

 それを見て、ぽかんと口を開ける先輩。更に黄色い声で叫ぶ”きんしちょう”ちゃん。

 市松さんは先輩にちょっと視線を向けた後、”きんしちょう”ちゃんに近付いた。

 そして。

「いい加減口を閉ざせ。咲が困っているだろう」

 先輩はどうでも良いんですね市松さん……。

 珍しく市松さんの声が不機嫌だ。いや、もしかして怒ってるのかな? さっきまであんなに真っ青で震えてたのに……。あれは怖がってるんじゃなくて、苦手な相手に対する拒絶反応的なヤツだったのかな?

 市松さんの言葉は”きんしちょう”ちゃんにてきめんに効果をもたらして、部屋は久しぶりの静寂を取り戻した。唐突に取り戻し過ぎて、色んな意味で耳の奥がキンキンする。

「唐子松さま? 金糸蝶はとてもとても心配しておりましたのよ? 久方ぶりにお家に顔を出したら、唐子松さまいないんですもの」

 静寂のまま誰も話し出さないので、結局”きんしちょう”ちゃんが……。

「市松さん」

「うん?」

「”きんしちょう”ちゃんって、どんな字?」

「金の糸に虫の蝶だ」

「てめこのちんちくりん! 今はあたしが唐子松さまと喋ってんだ邪魔すんじゃねぇごるぁ!」

 ああ、ごめんなさい。気になったもんだからつい。てか、金糸蝶ちゃん。市松さんの前でもガラッと変わっちゃうのね……。

「……お前のそういう所も好かんのだ」

 市松さんは、溜息と一緒に言葉を吐き出している。そう言えば、喋り方が“鏡龍さん仕様”だ。

 鏡龍さんって、全身を鏡の鱗で覆った中国っぽい竜の物の怪さんなんだけど、鏡龍さんが相手の時だと、市松さんはちょっと硬い喋り方になる。敬意を表しているというか、畏まっているというか、そんな感じ。

 私と話している時はもうちょっと柔らかい感じで喋るから、この話し方はいつ聞いても新鮮だ。でもこの場合、畏まってるとかじゃなくて、警戒してるとか、そういう意味なんだろうな。

 ……ん? 市松さん、金糸蝶ちゃんの二重人格ご存じなんだ。普通は、好きな人の前で裏の顔って出さないもんじゃないの? 物の怪って、そういうとこ素直なの?

 市松さんの容赦ない言葉に、金糸蝶ちゃんがぶわっと瞳に涙を溜める。

「酷いですわ唐子松さま。わたくしずっと心配して探しておりましたのに。やっとお目に掛かれたと思ったら他に女を作っていたなんて」

 何だかものすごく勘違いされている気がする。金糸蝶ちゃんは、腕が自由だったら振袖の裾とか袖とかで『よよよ』と涙を拭きそうな雰囲気だ。

「俺の居場所を、誰かに訊いたのではあるまいな?」

「いいえ。あまりにも見つからないので捜索範囲をどんどん広げてまいりましたの。そうしたら、その女が……」

 またも『よよよ』となりそうだけど……生憎、簀巻き状の金糸蝶ちゃんは、ベッドの上でごろごろするしか出来ない。言葉は切羽詰まってるのに見た目は残念な感じだ。

「咲を悪く言うでない。俺の恩人ぞ」

「……はい。申し訳ありません……」

 市松さんの声が一気にトーンダウンして、金糸蝶ちゃんはびくっとした後、しょんぼりと目を伏せた。ちなみに、普段聞かない市松さんの声に、私も金糸蝶ちゃんと同じ反応をしてます。先輩は成り行きを静観。口を出す気はないみたい。って、どう口を出したら良いかなんて、私も分からない状態だけど。

 でも、うーん……。

「ねぇ、市松さん」

「……どうした?」

 私が口を開くと、市松さんはすぐに反応して私の方を向いた。いつもの顔。ちょっとだけ安心するけど、金糸蝶ちゃんに申し訳ないって思っちゃう。

 いや、市松さんと金糸蝶ちゃんがどんな関係か全く分からない状態で口出しをするのは不適切だって、分かってるんだけど。でも、どうしてもこれだけ言いたい。

「あのね、その、金糸蝶ちゃん、市松さんの事心配してくれてたみたいだし、そこまで怒らなくても……」

 言い訳がましく、両人差し指を突き合わせながら市松さんを見上げる(私今日こればっかやってるなぁ)。怒られてないのに叱られた子供みたいだわ、私。

 市松さんが、目を真ん丸に開いた。それが元に戻ると、ふっと、困ったような笑顔になる。

「咲は優しいな」

 そうかな? こういうのでしゃばりって言うんじゃないのかな。それに、ホントに優しかったら、多分先輩が金糸蝶ちゃんをぐるぐる巻きにしてるの、解いてあげてると思う。

 大体、私に対してそんな事言っちゃうと……。

「酷いですわ唐子松さま。わたくしの方がずっと唐子松さまを心配しておりますのに。前のお家から唐子松さまが居なくなったと知って、わたくしいても立ってもいられませんでしたのよ。最悪の事態とて考えましたわ。唐子松さまは瑠璃姉さまと親しかったですから、お一人になられた寂しさから」

「その話はするな」

 ぴしゃりと、放たれた声。

 誰かが誰かを制止する時って、勢いに乗って怒鳴り声になったりする事、多いけど。市松さんの場合は、静かに、でも声は低くて、刃物みたいに鋭くて、下手すれば普通に怒鳴ってくれた方が怖くないって思わせられるようなものだった。

 私の両腕は、無意識の内に胸に押し付けられていた。身を守るみたいに体が強張っている。

 どうしよう。市松さんが怖いって思ったの、初めてかも知れない。

 おかげで、この重くて気まずい沈黙が漂う部屋の空気を変えるような言葉が出て来ない。

「お前は瑠璃の代わりになどなれぬ。大体、俺があの家を去ったのはそれが原因ではない。勝手に」

「勝手に痴話喧嘩を始めるな。やりたいなら余所でやれ」

 市松さんの語尾を奪う形で、先輩が口を開いた。市松さんは先輩に鋭い目を向けて口を開こうとしたけど、何かに気付いた感じで開けた口を閉ざした。肩から力が抜けたみたいになって、半ば呆然とした表情で私の方を向く。

「……すまん、咲」

「え? うううううううん?」

 首を振りながら返事したら、物凄く気の抜ける声になってしまった。いや、首を振ってなくてもこんな声だったかもしれない。まだちょっとだけ、動揺してる自分がいる。怒った市松さんにも、市松さんの言った言葉にも。

 だって、大抵、『誰かの代わりになれない』って台詞が表すものって……。

「ただ一つだけ言わせて貰うが、決して痴話喧嘩ではない」

 それに関しては多分、先輩は半分くらい冗談で言ったんだと思う。……というか、この状況でよく口出せたな先輩。

「藤崎」

「ほへ?」

 ちょっと腰抜け状態で壁際に座り込んでいた私は、普段通り仁王立ちしている先輩を見上げた。この辺り、さすが神社の息子と言うべきなんだろうか。こんな状況に慣れている人生って、あまり嬉しくない気がするけど。

「そいつは、元々お前の家にあった人形が付物神になったのか?」

「……つくも?」

 心から首を傾げる私に、先輩があからさまに溜息をついて見せる。というか先輩。『あった』は失礼でしょ。せめて『いた』って言って欲しい。

「付物神。古くからあるものに神や霊魂が宿った存在だ。物の怪の上位互換、とでも言えば分かり易いか?」

「市松さんは元々家にいた訳じゃなくって、近所に捨てられてたの拾ったんです、け、ど」

 うっかりぺらぺら喋ってしまった私は、はっとして市松さんの顔色を伺う。

 いや、市松さんって自分の話しないし。したがらない感じだし。という事はされるのも嫌いなんじゃなかろうかと思っての行動なんだけど。

「……どうした?」

 気まずい感じで上目遣いしてたら、市松さんに首を傾げられてしまった。困り顔で、でもちょっとだけ笑みを浮かべてるのは、私が怖がってたのを分かってるから? だとしたら申し訳ない。別に市松さんのせいじゃないのよ。

「いや、あの……」

「妖物(ようぶつ)に気なんか使うな。大体、捨てられてるものを迂闊に拾うな。危険な物だったらどうするつもりだ」

「市松さんは危険じゃないです! 大体、さっきから聞いてれば先輩の言い方失礼すぎますよ! 物の怪には人権がないとでも言いたげじゃないですか!」

「少なくとも『人権』というのは人間に当て嵌められるものであって、妖物に当て嵌めるものではないと思うが」

 あー、もう屁理屈男が!

「私が言いたいのはそう言う意味じゃなくって……!」

「さき、咲」

 何時の間にやら先輩に掴みかかりそうな勢いで立ち上がっていた私の行く手を、市松さんは腕を伸ばして止めた。

「落ち着け。その男(お)の子の言い分は正しい」

 何だか、さっきまでと立場が逆転している。私は興奮冷めやらず、屹度市松さんを見上げた。

「痴話喧嘩じゃないからね!」

「あ、あぁ……分かっている」

 怒る相手を間違えているのは分かってるんだけど、私の勢いに市松さんが冷や汗を流した。びくっとして、ちょっと頭が後ろに反っている。そんな私たちを、先輩は完全呆れ顔で見ている。

「拾ったって、いつだ?」

「……二か月くらい前です」

 ホントはもっと文句を言ってやりたいんだけど、市松さんに前から肩を抱くように腕を伸ばされているから、これ以上前に進めない。半分抱き締められてる格好に、私のほっぺが赤くなってないかの方が心配。

「それで今まで何もなかった、か。ならまぁ、安全か……」

「咲は恩人だ。俺は恩人に害を成す事は決してない」

「生憎、妖物の言う事は信用しない性質でな」

「せっ……!」

 市松さん離して! 一発殴ってやるんだから! ……とはさすがに叫べず、私は拳を振り上げた状態で突進しようとした所を、さっきより強い力で市松さんに止められる羽目になってしまった。

「咲。落ち着け」

「市松さんは何で落ち着いていられるのよ!」

 普通、怒るのは第三者じゃなくて当人でしょ!

 市松さんは本当に優しいのに。よく知りもしないくせに一蹴する先輩が憎たらしくて仕方ない。あまりの悔しさに涙声になってしまう。

 私を黙って見下ろしていた市松さんが、先輩へと顔を向けた。

「……俺をあれこれ言うのは構わんが、これ以上言って咲を泣かせたら、その時は許さん」

 市松さん、怒る箇所がズレてるよ……。

「ここで藤崎にどやされて今後部活に顔出さなくなっても困るからな。これ以上は余計な口出しをしないでおく」

 先輩も、心配する箇所がズレてるよ……。

 二人のあまりのズレ具合に、私は脱力してしまった。また床にぺたんと座りそうになった所を、市松さんに支えられてベッドに座らされる。そのままベッドにうつ伏せになってふてくされてやりたい気分だったんだけど、生憎、隣に金糸蝶ちゃん(未だぐるぐる巻き)が転がっていて出来ない。

 というか、この子はどうすれば良いの?


7-2.金糸蝶 下 に続く。


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