一度切りの人生、人はこの世に何を残すのか。そのヒントは意外と身近な所にあるのかも知れない。

 

 南日本新聞7月4日付「みなさんでぃ」に掲載された「残る私のため家電を新調」を読み、胸が熱くなった。

 

 それは、1人残される高齢の母が困らないようにと、母親の不慣れな電化製品を黙々と新調して先だった息子さんへの感謝が込められた話だった。

 

 母を思う息子さんの行為は、同時に母親へ「もう少し頑張ります」という気丈夫さまでプレゼントしたように思う。

 

 日頃、相続や遺産などに関する文書作成仕事にしていると、亡くなった方の人柄がしのばれる機会に触れることも多い。

 

 思い出の品からお金や不動産などにいたるまで、生前のきちんとした整理からはそれだけで、残される家族を思いやる気持ちが伝わってくる。

 

 後日、「几帳面なあの人らしいな」「また会いたいな」と、残された者に感謝と感動を与えてくれる。逝き方もまた、生き方の一つである。

北薩地区の県職員約20人が3月23日、飲食店で送別会を開いていたことが最近になって報じられた。

 

同26日には県観光課の職員が送別会を開いて批判を浴び、その後知事は陳謝している。

 

その時、名乗り出ることもしなかったことから、おそらくは公になるのを恐れ、ひた隠しにしていたのであろうが、事後の対応は一層背信的で情けない姿に思う。  

 

公務員は、例え新型コロナに感染して休職しようと、その部署が閉鎖されようともその間の給料は通常どおり支給される。

 

一部公務員のこうした非常識な行為を見るとその辺の驕りがあるのではないか。

 

本来、身分の保証というのはその義務を遂行する上にあるべきもので、単に公務員だからではない。

 

この1年、私の仕事や地域での飲食会合は1度も開かれていない。

 

互いの命を守るのは当然だが、皆、社会的責任を感じているからである。

 

コロナの早期収束は他でもなく行政の手腕にかかっている。

 

県民の努力を無にしてほしくない。

 

 

 この1年間の新型コロナ禍は、最近の大阪の状況を見るまでもなく明らかに人災である。

 

 政府の対策が場当たり的で間違っているからいつまで経っても収束の兆しが見えず、医療と経済は脅威にさらされ続けている。

 

 東京などに家族のいる人は日々気が気でない。

 

 昨年の初夏の頃には感染者数は全国で1日平均30人程の時期もあった。

 

 ところが、当時の政策は「ウィズ・コロナ」「新生活様式」などと耳障りの良い言葉で完全な封じ込め策を怠り、その後のGoToキャンペーンと再拡大につながってしまった。

 

 私は、当初から対策は「強く、早く、短く」「ゼロ・コロナ」を目指すべきとの趣旨の新聞投稿もしてきたが、政策は相変わらず泥縄式で、近頃では国民からも半ば見向きもされていないのではないか。

 

 首相は事あるごとに「国民の皆さんの命と健康を守り抜く」と言うが、死者数は今やおよそ1万人、医療崩壊で失う命も現実的となった。

 

 決意だけでなく、首相は責任の所在と覚悟を明確にして対策するべきである。