大神、親神様は、誰に対しても公平です。大神、親神様の台となって働かれる加藤先生でさえも、障りは障りとして詫びなければならないし、亡者やさ迷える神の憑依に対しては、加藤先生が大神親神様にお願いしない限り善処してはくださいません。人間感情ならば特別扱いをしてくださっても、と思うのですが……。

 

神様が分かってくればくるほど、高慢の心や偉ぶる態度はできなくなります。私たち人間は、神様の前には皆平等で皆仲間なんです。立派なことを言い多くの信者を集めている教祖も、宗派の官長も、信者も、会社の社長も、守衛さんも、皆上下はないのです。それぞれが与えられた環境の中で自分の持ってきた因縁に応じ、魂の修行をしながら役目を果たしているだけなのです。どなたにもそれぞれの役目、つまり使命があるということです。それを自分では気付いていないだけなんです。

 

例えば、私は「心の友」誌を発行させてもらっていますが、私が心ができていて皆さんを指導する人間かというと、そうではありません。ただ、前世の因縁により今世神様のお手伝いをさせてもらう片隅に加えられ、知り得たことや感じたことをお伝えさせてもらっているだけです。決して偉くもないし、悟ってもいないし、特別な能力もありません。ただ、係りだというだけです。

 

皆さんのそれぞれの使命も、日の当たる目立つ役目もあれば、日陰の縁の下の役目もあります。しかし、その人の魂の上下には関係ありません。ただ、魂の汚れや輝きには若干の差はありますから、それぞれが与えられた条件の中で修正して魂を磨いているだけなのです。役目は、社長さんも、運転手さんも、農家の方も、家庭の主婦の方も、皆それぞれが与えられた環境の中でどうしたら自分と縁を持てたすべての人に対して、楽しく仲良く暮らせる世造りが出来るかと協力することなのです。わが家族とか、わが会社とか言った小さなものでなく……。

 

そう考えていくところに公害も地球の破壊もなくなっていきます。神様は常に皆が円満になることを望んでおります。若い人にも老いた人にも、皆それぞれにその時その時の使命があるのです。老人の方でも身体をお返しするまで使命があるのです。自分はもう用のない人間だなどと思わず、今自分にできることは何か、神様は何を望んでいるかを考え、目立たなくても良い、大きなことでなくとも良い、自分でできることをしてみることです。

 

例えば、亡くなる前に縁のあったすべての人に感謝し、詫びるところは詫び、あのおばあちゃんは本当に良い人だったと言われるようになっておきたいものです。

 

地位や権力のある人ほど、魂の修行は難しいものです。心を低くし、謙虚になりたいものです。学校の先生においてもそうです。教育者とは知識を教えるものだけではありません。人間として、神の心に沿った生き方ができるよう教えるべきです。人との和、助け合い、思いやり等で、数学や英語の学問は生活の一つの道具にすぎません。それよりも、言葉の使い方や(言葉は人の命も奪います)万物への愛などを教えるべきです。それが本当の使命なのです。

 

私たちが住んでいる三次元のこの世は、いろいろな魂の方が同居しております。あの世の四次元の世界は夫婦であっても兄弟であっても、魂の輝きによりそれぞれが住む階が違うため、一緒にはなれませんが、この三次元の世は天使としての使命をもった輝く魂の方も、汚れ切った真っ黒な魂の方も、一様に肉体と言う衣を着て一緒に生活しています。外見からはその人の真の価値は分かりません。だから、それぞれの人達がいろいろな人から学ぶことができるのです。

 

意地悪されるのも、裏切られるのも、また魂の修行の一つでもあるわけです。このような中で、自分の使命を果たしながら魂を磨いていくのです。だから肉体を着た姿を見比べて、会社の社長だから、教会の会長だからといって、ことさら尊敬したり自分を卑下する必要もありません。すべてが平等で、それぞれの立場で魂の学習をしているだけです。しかし、相手を立て、すべてが仲良く円満にいくよう努力し、自分は低い心になることは必要です。

 

神様は、すべての人間が仲良く、動物とも植物ともうまく共存した生き方を望んでおります。だから、すべての者が仲良く助け合いながら、相手を大事にしていく生き方に努めるべきです。この文を読んでくださる人の中には、「それどころではない。今困っているこの難病を、この悩みを解決してくれ。他人の事などその後のことだ」と言うかもしれません。しかし、長い目で見ればこれも神の慈悲で、あなたの因縁を消す過程なのです。投げ出さずに役目を果たしながら、魂の修行に努めていただきたいと思います。