第一章 破局に向かう日々

第二章 広島の消えた日

という構成になっています。

第一章は、当時広島陸軍病院で軍医をしていた肥田舜太郎氏の原爆投下直前の様子です。陸軍病院内の緊迫した情勢が伺えます。

全国に空襲が広がる中、広島陸軍病院も危ないということになり、そこから6キロ離れた戸坂に地下大病院である分院を作る工事をしていた。

7月31日、

「(あと)一週間あれば完成させます」

しかし、それは夢でしかなかったと本書で語っている。

8月5日、戸坂作業隊は広島に帰って行った。肥田氏他残務のある者が一日残ることになった。これが彼らの運命を大きく分けてしまう。


第二章以下はその後の記録である。

急患と接待の疲れでいつもより遅く家を出た肥田氏は、勤務先での原爆直撃を免れる。そして地獄絵図を目の当たりにするのである。

「自分が無傷なのが申し訳ない」

以後、一生、肥田氏は被爆者の診察と放射能の内部被ばくの脅威を訴え続けたのである。

原爆の悲惨さだけを訴えているのではない。

被爆者故の後遺症も当然ながら、結婚や就職における差別がその後の被爆者を苦しめた。今だって制度が完全に整備されたとは言えない。

フランスの記者ピエールがあまりにも印象的な言葉を残している。

アメリカは何故日本に原爆を落としたか。

「日本海軍は全滅。ヒトラーは5月29日に降伏。日本が負けるのがわかっていました。ソ連が8月10日日本を攻撃することも知っていました」

この時まで、日ソ不可侵条約があったので、ソ連は日本に攻撃をしていませんでした。

「アメリカが日本に原爆を落としたのは、日本の降伏はソ連のためでなく、アメリカが原爆を落としたからだとソ連にも日本にも思わせる為です。アメリカは、ソ連に日本を攻撃するよう頼んでおいて、ソ連の日本攻撃が近くなると、慌てて急いで爆弾を作って落としました」(要約)


広島、長崎の原爆。背景には米ソの第二次世界大戦後の覇権争いがありました。何の罪のない国民が、国家の都合、外国の都合で犠牲になる。二度と繰り返してはいけないことです。

著者肥田氏は、2017年3月20日、100歳で没しました。ご冥福をお祈り申し上げます。