母がいつも私に、恍惚とした表情で、よく言っていた言葉です。

 

ー旦那は他人だけど、血を分けた子どもは自分の分身そのもの。特別さが全く違うー 

 

 わが子は、とても愛おしくて特別な存在なんだなーと当時はそう納得して疑いませんでしたし、私はとても大切にされていて、つくづく幸せ者なんだと思い込んでいました。まさに深い深い洗脳の渦中でした。

 

 確かに子は特別だと思いますが…。改めて今、この言葉をもう一度聞くならば、私には違和感を通り越して、恐怖を感じます。

 

 この言葉の真意はわかりますか?これは、「母の望む娘は、母自身と分身でないと、我が子として認めない。」と無意識のメッセージとして、子に伝えているのです。

 

 それを意識しない心(=無意識)では、しっかりと受け取っていて、子もまた無意識に、「母の望む娘でいなければ、見捨てられる」と危機感を抱いて、生存戦略の為に、母の望む娘を役割として受け入れているのです。

 

 私はもともと五感も、第六感もとても優れています(それが、機能不全家族では、さらに過酷な環境を一緒に創り上げてしまうことになりました…)

 

 洗脳中なので、顕在意識では、「なんて幸せな娘かしら」と母を神のように崇め、ますます信仰していましたが、なぜか、この言葉を聞く度に、胸がぎゅーっとなり、言いようのない重たさを感じていました。

 

 意識する頭では、「嬉しい」と思っていても、なぜか身体の反応、心の奥底、胸の奥がずっしりと重たい。この相反する思いはなぜだろうか?と、言葉に表現できなくても、幼い子ども時代であっても、感じていました。

 

 そんな状態を40年余りも無意識下で強化し続けていたなんて、ぞっとします。

 

 今の私が、その当時の私に会いに行って、言葉をかけられるなら、「一刻も早く、物理的に離れて!」と助言したでしょう。

 

 無意識の思い込みは、年月を重ねるほど、自分では意識していないほど、無意識にエスカレートしていきます。

 

 合成洗剤の香りを使い続けると、自分では良い香りでも、他者から見たら、すっごく強烈な香りになっています。それと似ているなと良く感じるのです。

 

 (香りが好きな人を否定しているわけではありませんが、共存する世界では、言葉にしなくても、不快と感じている人が人知れずいることも事実です。棲み分けられたらいいですけれどね。せめて他者の衣類、髪、身体、公共の乗り物の座席等に付かないような香りに調整してほしい。飲食店で嗅ぎたくもない香りに包まれるのは、苦痛です。そして、たかが香りの為に、素晴らしい人との出会いを諦めたくはないです。自分にとっての不快な香りと、その人の人格の素晴らしさは関係ありません。嗜好の違いだけなので。)

 

 話が逸れましたが、自分の本当の心を殺し続けて、他者の要求ばかりに応えていると、周りはそれが当たり前になり、知らず知らずに、限度を簡単に超えていくのです。

 

 身内、血のつながりのある家族がいることは、とても素晴らしいことですが、血が繋がっているから、一緒に暮らしているから、母娘だからこそ、他人との間では、一定の限度を設けることも、ついつい、知らず知らずに甘えて、無理難題なことを無限大に押し付けていることは、意外と多いのです。

 

 そして親からの要求には子は抗えません。その親から養育してもらわないと、生きていけないからです。

 

 親の限度を超える要求には、周りの大人達が気づいて、やんわりと指摘し合える、風通しの良い社会になってほしい。家庭内という密室だからこそ、どんなに犯罪的なレベルでも、その人達の「当たり前」という基準の元に、合法とされて、継続していくからです。核家族の弊害とも言えるでしょう。

 

 昨今の教育虐待も然り。過度な要求は、その要求に応えれば応えるほど、もっとハードに困難に大きくなっていくのです。

 

 私の母は、筋金入りの思い込みの激しさです。そんな母に、とことんまで苦しめられたのに、自分も知らず知らずに、思い込みが激しくなってしまっていることが悔しい…。(そんなに心を歪ませて生きてきた証ですが)

 

 それを、ニュートラルポジションまで戻すことは、目に見えないからこそ、調整が難しい。それでも、自分が楽になっていくために、試行錯誤して、その都度、振り返って、気づいて、調整して、の繰り返しです。

 

 どんなに内観しても、傷つかずに、真っ新な真っ当な私に戻ることはできません。その痕跡は何かしら残ってしまいますが、楽に自由に生きていくために、自分の為に、それをやるだけです。

 

 そんな私を理解できない人も多いでしょう。でももう、それでいいのです。これが私なのだから。

 

 私には素晴らしい魅力も才能もある。もうこれ以上、誰かの下敷きになる必要なんてない。

 

 だけれど、長年、心の中に築き上げられた、たくさんの制限という歪んだ、目に見えない牢獄は、自分で気づいて、取り払おうとしなければ、たとえ、その親が既に他界していたとしても、子の心には残ったまま、子は無意識に苦しみを継続し続けてしまうのです。

 

 だから、時に間違っても、行き過ぎてたとしても、そんな私を労わって、堂々と生きていきたい。不完全でも人は生きている価値があると思うのです。

 

 今、たとえ、引きこもりでも、いじめに遭っていたとしても、歯を食いしばって、自分を諦めずに生きているあなたには、心の中に、たくさんの宝も無数に隠れていることを知ってほしい。