ー人生は航海のようだー 人生を、そのように例えられる表現がある。人生は旅、ともいう。
私の今までの人生は、周りの人や出来事に振り回されてばかりで、自分の人生のはずなのに、運転席には、いつも「母」が乗っていた。私はいつも後ろの席で、どこに行くかもよくわからず、いきなり左右に舵取りされると、壁に頭や全身をぶつけた。
いつも真っ暗な洞窟を歩いているような感覚だった。頼りになりそうなライトも人も、難所を乗り越える道具も何一つ持たないまま、傷だらけになりながら、歩き続けた。
でも第三者の声で、深い洗脳、眠りから目が覚めた。私の人生の行く手を阻んでいたものは、いつも目の前にあった。それは親であり、機能不全家族だった。
ー人生の主導権を取り戻すー これが、目が覚めた私の、目下の目標だった。それは、到達したと思う。
私は、一緒に苦楽を共に乗り越えてきた、我が兄だけは、私の気持ちを理解できると誤信していた。先に親の支配から逃れようと、自分の意思を貫き始めたのは、兄だったからだ。
自分の親が、毒親であることは経験から理解している。しかし彼は、一度親から、物理的に離れた期間があったにも関わらず、また、両親の元に舞い戻ってしまった。
今は、どうしているのかは、もうわからない。ただ、ひとつだけ、私が思うことは、親の元にいる状態は、好ましい状況とは言えない、ということだ。
自分が支配されていた家、部屋にまたいつもいることは、当時の記憶を呼び覚ますし、心の根本から分かり合えない親と、上手くいくはずはないからである。
経済的な理由からだったとしても、心のどこかでメリットを感じていると、不本意な共依存状態をまた繰り返すことになるからだ。
引きこもる子と、心配する親との間には、また共依存が成立する。
意識下では、互いに苦しんでいても、無意識下に隠されたメリットがある。そこに気づけたら、その関係を脱しやすくなるけれど、そこまで突き詰めて、自分の心を見つめられるかどうか。
確かに事の発端は、親が悪いのだけれど、親は、そんなことに気づく由もなく、無意識にやっている。今までと同じように、子を支配下に置く無意識の言動は止められない。それどころか、歳を取り、ますます理性がなくなり、症状は酷くなっていく。
親孝行するのが当たり前?それは、刷り込まれた時代遅れの古い価値観だ。親孝行したいと思うなら、やればいいけど、自分の心身、人生の貴重な時間やエネルギーを消耗してまでやることではないし、私は二度と自分を粗末に扱うことはできない。
本当の親孝行は、自分が心の底から幸せに生きていくことだ。
ずっと親の為に、エネルギーと人生を機能不全家族と言う、溝に捨ててきたのに、これ以上、自分の心が張り裂けそうになる苦痛には耐えられない。だから私は物理的にも、情緒的にも遠くに距離を置く。
自分の人生をいつもどこか、何か他人や出来事に委ねて、ただ流されるように生きてきたけれど、これからは、自分がしたいことを、確実にやっていくために、自ら変化を起こして、人生の方向性を変えて、幸運を掴んでいく。
楽しくない現実がもし、あるなら、自分でどうにかして、楽しくなるように、工夫してみる。
今までの私に足りなかったことは、これかもしれない、と感じた。やりたいことを見つけた。ただ、それが、自分が満足できるレベルにまでは、到達していないなら、その現実を引き寄せるべく、行動しよう。そう決意した冬至の日だった。
思考が現実化する、とか、自分が現実を創っている、とよく、スピリチュアルでは言われるけれど、そのことがわかりかけている昨今。
今の現実を反映しているのは、私のどんな思い込みだろう?
そして、好ましい現実に変えていくためには、どこを変えたらいい?何が必要か?どんな自分になりたい?何をしたい?自分の潜在意識の思考を見つめ直して、願望を洗い出す。