心のアップダウンはいまだ多少ありますが、ここ数か月激しい波が来ておりました。2月頃から、心のもやもやがまた、寄せては返す波のように、浮上してました。

 

 何年も前から、手放したかった大きなソファとラグ。2月下旬から家具屋さん巡りを再開し、3月初めに新家具を購入。3月末にようやく新しい家具へと変わりました。

 

 発注してから、遅いもので2か月近くかかるかもしれないとのことでしたが、願いが通じたのか、3月下旬には全て完成し、3月中に、模様替えすることができました。

 

 新しい部屋は、ラグとサイドボード、一人掛けの贅沢な、心地よいソファとオットマン、というシンプルな配置。それでも、部屋の空間が一気にぐんと広がったことで、決して広くはない部屋でも、かなりの解放感を感じるようになりました。

 

 私の部屋にあった全ての家具は、全部処分し、これからずっと大切にしようと決めた家具だけを置きました。まだ部屋中、新しい家具の無垢材の香りが、漂っていて、なんとも幸せな気分です。

 

 かつて私の部屋にあった家具は、全て母と一緒に行って買い揃えたものでした。

 

 自分の心を取り戻す中で、次第に、母が隣にぴったりといる状態で選んだ家具に、徐々に違和感と、ずっしりとした重さを感じ始めました。

 

 自分で選んだといっても私が純粋に私の視点だけで、心から欲しいものを選んだ、とは言い難いものだったからです。

 

 当時の私の心には、母が反対しそうなものは選ばない、というプログラムが組み込まれていました。無意識に、母が気に入るような、母が好きそうなもの、という条件が入っているからです。

 

 まさしく骨の髄まで、母の思う通りの娘を演じきっていました。

 

 自分の心の苦しさが絶えずあったのも、今では納得です。母からの条件付きの愛情を獲得する為に、私は、多大なる無謀な努力に、自分の貴重な人生の時間を費やしていました。

 

 こんなにも私は、母からの愛が欲しかったのだと、改めて痛感しました。でも、それを得ることは決してできないから、これからは自分で自分の心を、満たしていくように、無意識に浸透するまで、習慣づけている最中です。

 

 こんなにも、自分の事を無条件に愛し、認めることが難しいなんて、と思う瞬間も、まだあります。

 

 それは、0か100か思考で生きてきた痕跡でしょう。でも一生かけてでも、自分の心を解放し、溢れるほどに自分の魅力と才能を発揮して生きられるようになるまで、私は、諦めません。

 

 改めて、そう決意する日々です。家具を変えたことによる、心の軽さを感じるものの、一番難関だったソファが、処分してもなお、なんだか、ソファが泣いているような気がして、数日間は、もやもやしました。

 

 母の想念でしょうか?それとも、ソファ自身の心の叫びなのか、少々胸が痛いです。私は、モノをとても大切にして使うので、数年経過しているとは思えないほど、綺麗な状態でした。

 

 誰か、喜んで使ってくれる人がいればいいなと思い、随分探しましたが、買取側は、購入してからの年数で決めるところがほとんどのようです。

 

 一件だけ買ってもいいと言ってくれたのですが、玄関先まで運んでおくことが条件で、私の住むメゾネットの部屋では、それがネックとなり、断念しました。

 

 騒音が激しく、非常識な階下の住人と共に過ごした日々は、とても辛かったです。それでも、心の開放をするにつれて、後から少しずつ現実が、ゆっくりと改善に向かっていったように思います。

 

 そんな隣人もいなくなり、今はささやかな、静かな時を楽しんでいます。ただ、ゆくゆくは、賃貸ではなく、自分の家を持ちたいと強く願うようになりました。

 

 同じ建物の中で、他人の音や声が聞こえるのは、慣れはしましたが、あまりいい気分ではないです。他人と一緒に住んでいるようで、落ち着かないです。

 

 自分の気に入った壁や間取りや形、デザイン、手触り、木のぬくもりのある、心地よい空間を揃えた、自分好みの家という、安心安全な居場所の大切さを痛感します。

 

 家具を変えたことが、心の変化に大きく繋がっていて、その後も、今まで放置していたクローゼットなど、目につくところの断捨離欲が刺激されていて、片付けがいまだ続行中です。

 

 目に見えるところに出して、自分にとって今も必要なものか、定期的に確認する、という小さな行動が大切だと感じました。一度しまい込んでしまったら、次第にその存在を忘れてしまいます。そして、モノは次第に増えていきます。

 

 それは、モノ自身にとっても辛いこと。監禁されている状態だからです。お互いの為に、合わなくなったモノとは、愛と感謝を持って、お別れしましょう。

 

 断捨離しながら、こんなにもいろんなものを抱えていたのだと、びっくりするとともに、要らなくなったものを、感謝して手放す作業に没頭している昨今です。