私が高校生だった時、拒食症だった同級生がいました。その子はどこからみても、とても良い子でした。彼女のことを悪く言うような人は、誰一人いませんでした。「良い子」の代名詞のような子でした。
高校三年間、苦しんでいましたが、食に関することを除いては、とても精力的に、青春という名にふさわしい高校生活を送り、部活動のマネージャーもやり、友人も多く、常に人に囲まれていて、明るくて、充実した日々を送っていたように見えた彼女でした。
私は内心羨ましく感じていたほどです。自分は全然、楽しくない灰色の高校生活。一時的な友人がごくわずか。なんでこんなに心が疲弊しているのか、わからず、悶々と暗い洞窟の中を彷徨っていました。
高校入学から一年間は、上位をキープしていた成績も、勉強する意味さえ見失い、徐々に下降していきました。今思えば、第一波の燃え尽き症候群の状態に入っていたのだろうと思います。
私のことはさておき、その彼女は、そんな見た目とは裏腹に、家庭は複雑でした。母娘関係は、一見良好なようでしたが、彼女の母親は、夫とは不仲で、子ども達に、精神的にも経済的にも依存していました。
大学生になって、今までのことがまるで、嘘だったかのように、彼女は、大食漢になりました。その細い身体のどこに、そんなに食べ物が入るのかと思うほど、美味しそうによく食べるようになりました。
ただ今、振り返ってみて、思うのです。
彼女は、本当の意味で、拒食症を克服できたのだろうか?と。そして、彼女は今、幸せに生きているのかな?と。自分の抑圧した感情に気づき、親との関係性を冷静に見つめ直し、本来の彼女として、幸せに生き直していてくれればと願うばかりです。
話が逸れましたが、摂食障害は、母親が作った料理が食べれなくなるのです。それはなぜか?料理に作り手の想念が入るからです。
心と愛情を込めて作った料理と、作りたくないのに、嫌々ながら作った料理、商売の利益だけを追求して、口に入る人への思いを馳せずに、雑に作られた料理の違いってなんとなく、無意識に、人はわかりますよね?
心を込めて作った料理は、人の心を打ちます。とても感動するし、喜びと嬉しさに溢れます。
でも、そうではない料理は、例え、美味しいものであったとしても、なんだか心が荒みますよね。
母親が愛情込めて作った料理、例え、美味しくても、それを受け付けなくなるには訳があるのです。それは、母親の無意識の想念です。母親が子をどう扱っているかという気持ちも一緒に入っていると私は思います。
私は、摂食障害には幸いなりませんでしたが、洗脳が解けてから、母の手料理を食べる機会があった時、あんなに美味しいと思っていたはずの、母の手料理に感動しなくなってしまったんです。
なんだか、「この手料理を食べて、私を褒めてほしい。」とか、「料理を振る舞ったのだから、私を喜ばせてほしい。」と言った願望のようなものを感じたのです…。そう思ったら、余計、食べられなくなりました。
これは、私の感想なので、感じ方は人それぞれ千差万別かもしれませんが、料理には、目に見えない無意識下の想念までも、混入するのでは?と私は推察しています。
みなさんは、どうでしょうか?私は、摂食障害の専門家ではありませんので、詳しいことはわかりませんが、摂食障害は、母との関係に問題がある人がなることは、良く知られた話ですよね。もちろん、それだけではなく、複合的にいろいろな原因が絡み合っているとは思いますが…。
食は、人が生きる為には、絶対に欠かすことのできない根幹部分です。そこが揺らぐということは、とても大きな心の動揺や混乱、抑圧した思いや感情が、そこにはあるということです。