つい最近、「毒親」という韓国の映画があることを知りました。元は日本の小説家さんのお話のようですが、私は、あらすじを少し読んだだけで、これは…見ることはできないと思いました。

 

 母と共依存にある娘が、自殺するという話から、映画が展開されるようですが…。真実がわかって、母親はどうなるのか、ラスト気になりますが…私は見れないです。過去の傷口が、とめどなく噴き出してしまいます。

 

 親と子をテーマにした映画やドラマが、時々ありますね。

 

 再放送で「MOTHER」(松雪泰子、芦田愛菜主演)を見たのですが、やっぱり全部は見れませんでした。悲しすぎて、辛すぎて…。表上は「誘拐」という形ですが、こんな人が現れてくれたら、虐待されている子は、僅かな時間でも幸せだと思いました。やっぱり、誰と過ごすかで、子の人生は大きく変わると痛感しました。

 

 前置きはこの辺にして、今回は、親との距離感について、です。

 

 みなさんは、親とどのような距離感で接しているでしょうか?

 

 距離感=境界線のことですが、私の場合は、それはもう、「母子密着型」でした。「べったり」という言葉以外ないです。いや、べったりどころか、重なっていた、という表現の方が、適切かもしれません。母の人生を生きたのですから。

 

 これはNGです。レッドゾーンです。何度も書いてますが、母娘といえども違う魂、違う人格です。同じなわけありません。多少重なる部分はあっても、全部一緒になるわけがありません。

 

 しかし私の母は、「自分の分身!自分と同じ!」と信じて疑いませんでした。

 

 もし、思い込み選手権なるものがあったら、世界一かも?と思うほど、思い込みが強固で頑固でした(親がそう思い込み、望んでいるから、子はそのように振る舞わざるを得ないだけです)

 

 毒親のチェックリストにもよく出てくるのですが、「子を自分と同一視する。自分の延長、所有物と考える。」のまさに典型例です。

 

 今の子どもたちは、スマホ世代なので、毒親チェックテストを、一度やってみるといいです。どんな親が毒親か知ることができます。「仲良し親子」という人達は、一番危険な親子関係です。「共依存」状態です。日本は共依存がとても多い国です。

 

 親と子がべったりだと、「境界線」を育むことができません。心と身体の境界線は、人間関係の基礎部分です。境界線が保てて初めて、個の人格形成と自立が進むのです。

 

 親が子にべったりとなるのは、その親自身も、自分の親との間に、適切な距離、境界線を保てずに、侵入されて育ったのです。だから、子とどんな境界線でいることが妥当か、わかりません。境界線という概念すら、頭の中にないでしょう。

 

 しかし境界線は、血縁関係こそ、特に重要です。気づかないうちに、踏み込みすぎたりします。甘えや傲慢さが出やすいのです。

 

 「子の思い、人格も、親である自分と同じく、尊重に値する。」ということの意味を、体験に落とし込んで理解できていないと、気づかないうちに、レッドゾーンまで行き過ぎてしまいます。我が子だから、愛情だからというフィルターが、さらに現実を曇らせていきます。

 

 人の心の奥深くに押し込めている、自分の意識していない「心の闇」は、ひっそりと家庭内で露見されます。

 

 自分を信じていて、自分より立場の弱い、純粋な子に対して、出るのです。大きすぎる闇は、閉じ込めておくことが出来ません。どこかで出して楽になりたい、という心理が無意識に働きます。

 

 先祖代々、アダルトチルドレンです。世代間連鎖しているのです。どこかで、その負の連鎖を止めなければ、ずっと続いていきます。無意識下で無自覚に。

 

 苦労したけれど、私は、その連鎖を止めることができたみたいです。

 

 私は、母の犠牲的な辛い子育てがトラウマとなって、子どもを持てないとずっと思い込んでいたので、子を持つことが考えられませんでした(潜在的に子どもはとても好きです。)

 

 今世では子はいない人生で終わるでしょうが、生まれ変わったら、今度は、子どもを持ちたいです。

 

 機能不全家族に生まれて、被害者として、たくさんの役割と制限を持って、心を空っぽに、思考を歪ませてまで必死に生きてきたけれど、それすらも、自分が無意識に選択していたことならば、もうその辛さは、重々学んだので、今度は自分を救い出し、自分の心を解放して、自由に生きることにシフトして、楽しくやっていきます。