人が生まれ落ちて、初めて出会う人は、お母さん、お父さんです。赤ちゃんは最初は何もできません。全依存状態で、親に世話をされ、愛情を注がれ、少しずつ大きくなっていきます。
赤ちゃんの時点では、親との境界線はありません。親と子の境界線が分かれていたら、むしろ大変なことになります。
お母さんが、体調が悪くても、忙しくても、寝不足でも、赤ちゃんは生きるために、お腹が空けば、泣いて知らせます。親の都合など構っていられません。そうしないと生きていけないから。この時期、お母さんお父さんは、育児がとても大変です。
その時期が過ぎて、子が少しずつ大きくなるにつれて、健全な場合は、自我が少しずつ芽生え、自分なりの境界線も育っていくようになります。
一体化していた、親と子の境界線が、子の自我の芽生え、成長と共に、少しずつ分かれていくのです。
やがて思春期になり、親と子である自分が、違う人格であることをはっきりさせる儀式、反抗期が始まり、親と子は、それぞれの境界線が、明確に分かれて、人対人の関係になっていくのです。
本来であれば、親と子の境界線は、子の成長と共に、別個に確立していくのですが、機能不全家族の場合は、親が子の成長を阻み、子の人格を認めず、子のありのままを尊重しない為、この境界線が育たず、一体化したまま、子は身体だけが大人になっていきます。
親自身が、子を持つ前から、境界線をはっきり持っていれば、子も、親の在り方から、自らの境界線をつくっていくことができます。しかし、ACである親は、そのまた親から、境界を尊重されなかったので、境界が確立していません。
境界侵入されて育った子は、自分が親になったら、今度は、子の境界に無意識に無自覚に侵入してしまいます。
境界が曖昧だったり、全く存在していないので、侵入したり、されたりが、当たり前として生きているからです。(血縁関係だとなおさら、そのラインは、曖昧に緩くなりやすいとも言えます。肉親だからという甘えが出たり、子を思い通りにしようという親のエゴが絡むので。)
境界線がなければ、自我を確立させていくことができず、自分軸も育たない為、親と子の境界侵入が、日常茶飯事となって定着化していきます。
親からの境界侵入が固定化していくと、子は生きづらさを常に感じ、それはやがて世代間連鎖していきます。
「境界」という概念が、難しいという人は、これ以上は入ってほしくない、不快なライン、拒否を示す、心のバーダーラインだと思ってください。
不快感や嫌悪感、戸惑い、困惑する感じ、神経が磨り減る感じ、これ以上踏み込まれると、心の平穏が保てない状態になる、という、心の境目です。
そのラインに達したら、拒否していいのです。ですが、機能不全家族においては、この「拒否」の意が、尊重されないのです。その子だけの感覚、思い、意思、人格を認めてもらえない為、「拒否」の意を示せず、容易に踏み込まれてしまうのですね。
境界線は、相手との関係性の濃密度によって、緩くなったり、固く閉ざしたものだったり、様々です。
親友など親密度が高い関係は、境界線は緩くなります。(ただ、0にはなりません。親しき中にも礼儀あり、という言葉のように、最低限、お互いを尊重し合う、快適なラインがあります。)
同じアパートに住む住人であっても、挨拶程度で、それ以上、全く関わらない関係性もあるでしょう。
いずれにしても、どんな人に対してであれ、自分が自分らしく、安心安全に快適でいられる、心の境界線を確立できていれば、自分の心を適切に守り、また相手の事も尊重し、程よい距離感で、快適に付き合っていける、大切な線引きです。
この概念は、自分が個として、健全に、対等に生きていく上で、とても大切なことです。
あなたを、苦しみのループへ繰り返し導いているのは、シンプルに言えば「境界」の問題を抱えているから、とも言えます。
この、心の線引きは、いくつになっても、気づいた時から、育んでいくことが可能です。
ACではない人であっても、ある分野、特定の人や場面において、境界を保ちにくい部分を少なからず持っているものです。また、自分の調子が悪い時、体調がすぐれない時に、境界が崩れがちになる人もいます。自分のコンディションによっても、境界が崩れやすくなります。
大切なことは、自分が、どんな時に、境界が保てなくなるかを知り、気を付けるようにするだけでも、ずいぶん違います。
日本人は、とても和を大事にする人種です。だからこそ、心の境界線を保つことは、自己主張がはっきりできる外国人よりも難しいかもしれません。
それは、美点でもありますが、行き過ぎると、自分が必要以上に苦しくなってしまいます。和を保ちつつも、自分が苦しくならずに、快適でいられる心の境界線を保つように、今からでも、育てていきましょう。
自分が境界線を確立できるようになると、自然と相手に対しても、尊重する姿勢も育ちます。
私も、まだまだ試行錯誤中ですが、自分を諦めずに、自分を適切に表現する練習に励んでいるところです。
境界線の線引きは、人それぞれ違いますが、そのラインを決められるのは、自分の意思、気持ちだけです。自分の思いや意思に反して、境界侵入される場合は、自分を守るために、緊急度、重症度に応じて、必要な対策をとりましょう。
境界を確立できていない人からすると、他人から境界を示されるのは、「私は嫌われているのか?」など、悲しい気持ちになるかもしれませんが、相手は、あなた自身を拒否しているのではなく、正当に「境界」を示しているだけなのです。
こういう風に考えられるようになるには、しばらく訓練が必要かもしれません。私自身もまだ、その域に達してないです。
でも、心の平安が保ててこそ、自分が自分らしくいられるのだということは、痛感しています。
長年、両親、周りの人達に、無境界なまま生きてきたので、まだその癖が抜けませんが、根気強く続けていきます。
この境界線の意識も、健全な家庭に育つ人は、小さい時から、無意識に習得していけるので、そのような人達からしたら、「なんで、そんな当たり前のことができないの?」と疑問を持たれるかもしれません。
でも、境界線を学べなかった人達にとっては、健全な家庭ならば、小さい頃から徐々に無意識に構築していけるものが、育っていないのですから、とっても大変なんです。
この、無意識に当たり前にできているものが、できなかった人達というのは、侵入したり、されたりして不健全な状態こそが、その人の「当たり前」の状態で、生きるモデルとなり、何十年と繰り返し生きてきたわけですから。
人は方向性を変える時が、一番大変です。なぜなら、人の無意識は、繰り返し強化したものを、自動運転し続ける習性があるからです。
人の人生の方向付けをする、最初の家庭において、身につけたものがその人にとっての基準であり、肌に染みついています。当たり前となっていることを、変えていくには、筋トレのように地道に、毎日、少しずつでも、新しい「境界」を、自分に植え付けていく作業が必要です。
私は、境界線のことを、学校で実践を交えながら、教えてほしかったと感じています。このことを知って、マイナスになる人などきっといないはずです。
教育とは何か?人生をよりよく生きていく方法を教えていく場であってほしいと私は思いますが、現状は、学校という密室の中での、いじめの温床だったりする現実が、とても悲しいなと感じます。
人が学ぶ場が、本来はどうあるべきか?
学問を教えるだけではなく、一人一人の個性や違いを受け入れた、目には見えない心の領域を、健全に形成していく場であること、ひとりひとりの人生が何の制限もなく、自由にのびのびと生きていけるように修正できたり、支援する場であることが、一番大切なことではないでしょうか。