巷には、ありとあらゆる情報が飛び交っています。情報だらけで、ひとつのテーマに対して、全く真逆の見方をする情報も数多くあります。ネットが普及し、YouTubeや、ツイッター、インスタグラムなどのSNSも登場し、ネット上での人と人との距離も、ぐんと近くなっています。

 

 私のようなアダルトチルドレンは、自分に対する揺るぎない信頼がなく、自分軸がガタガタなので、情報に振り回され、何が正解なのか、わからなくなりがちです。

 

 言葉を伴わない、表情やしぐさ、雰囲気なども含めてのあらゆる情報を手にした時、自分の心の中で、しっかりと咀嚼し、自分が採用する考え、思いは何か?という、自分なりの軸を確立することなく、今まで、いろんなことを鵜呑みにして、自分という心をなくして、生きてきたので、いつも周りの目を気にして、人の意見に左右され、いつも、どこに正解があるのか、探し求めて、疲弊する、というパターンはないでしょうか?

 

 世の中には、〇か✖かの二択ではなく、グレーで曖昧な領域も数多く存在します。特にネット上では、フェイクニュースもたくさん出回っているようです。何が真実なのか、健全な感覚の人でさえも、わからない時もあるでしょう。

 

 でもアダルトチルドレンにとって、曖昧な世界に身を置くことは、恐怖なのです。完璧であらねばならないから、どっちつかずの状態は、耐え難い苦痛を伴います。

 

 それが、機能不全家族の中にいる時は、その環境で生き延びる必要があるため、メリットがあるのですが、自分がその環境を抜け出したならば、その涙ぐましい偏った考え方ー認知の歪みーや、アダルトチルドレン特有の思考は、のびのびと自由に愛と平和に満ちた世界に生きていこうとする時、それを阻んでしまいます。

 

 仕方なく身に着けた、思考の偏りや習慣を、ゼロに戻すという作業は、簡単ではありません。生まれてから、何十年とその思考癖を強化し続けたのですから。

 

 でも、あきらめずに、自分が人や情報と対面した時、どのように心が反応し、揺れ動き、彷徨っているのか、冷静に観察して、少しずつ、他人に行きがちな視点を自分に戻す、という訓練が必要です。

 

 自分という人間の心の中を深堀すればするほど、「あ~なんてイタイ人間なんだろう…」と落ち込んでしまう時もあります。

 

 でも、ここで気を付けたいのは、自分という本当のありのままの魂の私が、イタイ人間なのではなく、仕方ない不遇な環境に適応するために、自ら歪ませた思考癖や習慣、制限が、イタイ結果を生んでいるだけだということです。

 

 自分の思いを自身に問いかける、自分が何を求めているのかというニーズを発見し、自分自身に叶えてあげて、自分の心を満たし、自分の心の機嫌を取る。一人の人間として、しっかりと自立して、自分の人生に責任を取って生きていける人は、とても凛としています。

 

 私も、そうなりたいと常々そう思っていますが、過酷な人生前半を選んだ自分を時として、恨めしく思うこともあります。

 

 自分でしっかりと立って、楽しく生きていきたい。心の渇きを、他者が何かしてくれるか、くれないかという他力本願で不確かなものに預けてしまわないで、何があっても、力強く生きていける私でありたい。そう思います。

 

 自分の想いや考えを自分で察知する習慣がないアダルトチルドレン。でも、溢れる情報の中で、ひとつだけ確かだと思うことは、自分はこうしたい、これがいいと納得して選んだことは、後から後悔することはないのだと思います。たとえ、それが、自分の望む結果ではなかったとしても、選ばずに鵜呑みにするのと、自分の信念に基づいて選ぶのとでは、雲泥の差だと思います。

 

 何が正解かもわからない。けれど、自分なりの正解があるとすれば、自分の感覚と信念に基づいて、物事を選んでいけるかどうか、これが、自分主体の人生を生きるということではないでしょうか。

 

 いろんな価値観の人がいます。ある人の正解は、自分にとっては、とてもまずいものということもあります。ただ、どっちが良いか悪いかという優劣ではなく、自分はどうしたいか、自分が納得できれば、自分にとって、それが正解なのです。

 

 正解を、人やたくさんある情報だけに委ねないこと。正解があってもなくても、人の数だけ正解があっても、それよりも、自分がしたいことを、思うことを、人の気持ちを優先せずに、自分自身の思いや考えを一番に置いて、人生を歩いていきたいとそう思います。

 

 人と対面した場面で、無意識に、心が、「自分がどう思うか?感じているか」ではなく、他者に視点が移ってしまうのです。それを自分でいかに早く気づいて、視点を自分に戻すか、毎日試行錯誤です。