外国は、周りから見て明らかな、身体的虐待が多い傾向にあるが、(もちろん各種依存症もある。アルコール、薬などの物質的なものから、対象が人になる依存症などなど。)
反対に日本は、過干渉、共依存が潜在的にとても多くて、傍から見たら一見、とても仲の良い親子にしか映らないけれど、実は、深い深い闇が各家庭に蔓延っていて、当事者(=子)は、何が苦しいのかわからずに苦しみ続け、でも、加害者(=親)をはじめ、周囲は全く気づかない、といったケースが多い。
過干渉、共依存の最も深刻な問題は、加害者である親が、子に対して、「とても良いことをしてやっている」という、とても強い間違った信念を強固に持っている、ということ。仮に、子が、苦しみを訴えても、周りは全く理解しないという悲しい状況に陥ってしまうということ。
「あんなに素晴らしく、素敵な、子ども思いな親御さんを持って羨ましい」などと言われるだけで、訴えた本人の方がおかしいと捉えられてしまう、というパラドックスを孕んでいる。
最近でこそ、専門家の提唱、また、いろんな人がブログに実体験を書き、少しずつではあるが、過干渉、共依存の実態が表明され始めているが、まだまだ内情は厳しい。
過干渉、共依存は、まさに「真綿で首を絞められるように、じわじわと、ゆっくりと長い時間をかけて、しかし確実に、子を苦しめていく」のである。子の為に、素晴らしいことをしてやっている、という大義名分のもとに…。本当は、全部、親のエゴの為にやっていること。
私が、共依存から脱却し、親の操り人形を辞めようと、親の無意識の言動から感じる、たくさんの違和感を受け取り、親の言うなりに反論し始めた頃から、親の本性、真意が如実に表れ始めた。
連絡を絶つ私に、母は「あんなに可愛がってやったのに!私は泣いています!!」と、批判に満ちたメールを早朝に送ってきたこともあった。こちらの事情など、最初から、「全くないもの」としている態度に、私は憤慨した。
これまでも、私の人格や思いなど、全くないものとしていたのだ。それに、その手を逃れて初めて、やっと知るなんて…と、自分自身に愕然とするとともに、血の通った親が、子を何の躊躇いもなく、ここまで批判出来ることが何よりショックだった。
「○○してやったのに!」この言葉の真意が意味するものが、わかりますか?
「育ててやった!」などの言葉も同じです。条件付きの、偽りの愛情だという、何よりの証です。
子を産めば、親は育てる義務があります。健全な、無条件な愛情を持つ親ならば、決して子に言わないセリフです。「○○してやった」は、親が子を無条件に、上下関係、主従関係、子を奴隷と思っていることの証拠です。
そのような環境で育つ子は、その環境に適応するために、様々な制限、誤った思い込みなどの、たくさんの足枷達を身に着けていきます。
極に触れる考え方(=白黒思考、完璧主義)、被害者意識、そして長い年月をかけて、どんどん降り積もる、重くて深い雪のような、自己否定感、無価値観。そして、どこにもぶつけられない自分の心を虐げ続けるたくさんの深い悲しみ、怒りの感情。
それらが潜在意識に深く染みついた状況で、人生を自動運転していきます。上手くいくはずがありません。前提が間違っているのだから。
世の中におこる、悲惨な事件がある度に、胸が痛みます。健全な家庭環境で育つ子が、犯罪者になることはありません。誰もが、自分の人生を展開する、最初の前提が、健全に育まれなかった結果です。
人生は、頭の中の解釈の仕方によって、如何様にでも、自分の見える世界が変わります。その大前提に疑問を持つ人が、どれだけいるでしょうか?まだ、少ないはずです。でも、そこに気づき、人生を修正し始め、ありのままに、幸せに、魅力や才能溢れて生きている人達もまた、存在します。
私もまだ、修正途中です。でも、確実に、幸福感が増し、生きている喜びを感じられる日々が増えてきています。自分の中から、生きる力が滾々と湧いてきている気がします。
もし、誰もが、何にも囚われずに、自由で、楽しく生きる人生を送り始めたなら、日本全体も変わり始めるでしょう。
子が小さい時から、周りが異変を察知出来て、修正が出来る環境づくり、社会づくりが必要だと思います。子を苦しめたくて苦しめているわけではない親達にも、気づきを促すような、救えるようなシステムができてほしいと思います。