私は日頃、テレビはほとんど見ません(好きな番組だけを録画して見ます。CMも長すぎるし、CMの挟み方も嫌いです。一瞬だけ番組を見せ、また長い長いCMを流す、という汚いやり方のものが最近は多いので、録画して飛ばしてみます)
なぜなら、テレビもCMも一種の洗脳だからです。伝える報道内容も、明確な意図をもってつくられています。人に方向づける意図を持った映像の作り方をしています。中には、真実をきちんと伝える内容もあるのかもしれませんが、真実は、切り取られた、ほんのわずかな一場面だけを見て、判断できるものではないからです。
人のイメージも、作られたものが多いでしょう。有名人などは、知名度が大事なので、イメージ作りも同じように大事かと思いますが、(それは人に限らず、商品も)作られたイメージと、その人が本来どんな人か、又はどんな商品かは、結局は、ある程度会ってみないと見えてこないし(それでも判断できないこともある)、商品も使ってみないとわからないです。
ですが、人は思い込みの生き物です。自分の価値観という、「色眼鏡」を通して、物事を判断します。色眼鏡を通して物事を見ているのですが、人は普段、それを意識していません。自分の判断が正しい、と強く思う人ほど、その色眼鏡は偏狭で屈折率が高く、度が分厚くて、濃い色をしています。
考え方が柔軟で、様々な価値観や生き方を受け入れている人は、この「色眼鏡」が、とても薄く、透明になっていきます。私も、まだまだ色の濃い眼鏡でしょうが、透明に近づくように、日々奮闘しています。
ここで、私の体験に当てはめて、解説してみたいと思います。
一場面:「母が手作りの料理を持ってきたが、私は会わなかった。」
これだけ読んで、皆さんはどう思いますか?どう思ったか、覚えておいて下さい。
では、背景を説明します。
私は40年間、母の望む、思い通りの、理想の娘を演じました。41年目にして、私の家族は機能不全家族であり、過干渉、母娘共依存という異常な家庭環境であることを知り、カウンセリングを受け始めます。
私の心の底に、沢山の悲しみ、怒りの感情があったことを知り、その感情と向き合い、癒していきました。徐々にカウンセリングが進むにつれて、親を神格化していたこと、心理的に支配されていたことの仕組みも理解します。
共依存は、別名「自己喪失の病」です。文字通り、自分がないのです。背景を理解したものの、じゃあ本当の私は、どこにいるの?と、自分が空っぽに思えました。
自分の心を長年、封印して生きていたため、自分の心が全然わかりません。何をしたら私は嬉しいのか、何をされれば嫌なのか、何もわかりませんでした。悲しみに裏打ちされた、激しくて深くて大きい、沢山の怒りの問題も抱えていました。
それでも、少しずつ、自分の願いが、感じ取れるようになってきました。ただ、わかるようになっても、例えば、「外に出たいけど、出れない…。」など、もどかしい状態が続きました。それは機能不全家族の中で、「二重拘束」(=ダブルバインド)という、体験をたくさんしてきたことが、原因であることも知りました。
また、そのうち、「境界線」のことを学びます。人と自分を隔てる為、人と自分の関係を良好に保つ為にも必要な、心の境界線。境界線がない私は、健全な境界線を築くことが上手くできません。それでも、試行錯誤しながら、少しずつ、少しずつ理解していきました。
境界線の侵入のサインは、「心の不快感、嫌悪感」です。自分が侵入すれば、相手が不快に感じます。相手に侵入されれば、自分が不快感、嫌悪感を感じます。
その「不快感」を感じるセンサーが、少しずつ蘇るようになってきました。両親と物理的、心理的に距離を置き、自分の心と向き合い続けた結果です。ここまで5年経過しています。
親からの接触がある度に、徐々に、沢山の違和感を感じるようになってきました。電話に出るまで、何度もしつこく電話をかけ続ける母。「何度もかけないで。こちらにも事情がある。こちらの都合も考えて」とお願いしても、全く効果なしです。必死に距離を置いているのに、手紙、突然の来訪もあります。
まだ、交流があった頃、こんなことがありました。
私の誕生日にプレゼントをあげたい、というのです。自分の好みが少しずつ分かってきた私は、欲しいと思えず、やんわりと断りました。しかし、母は頑として譲らず、「あげたいの!!!」の一点張りでした。
何度も平行線の会話をした後、結構、強い口調で、「本当にいらない!」と言っても、全く聞く耳を持ちませんでした。私は悟りました。何も言っても、受け入れない。特に、娘の拒否は、まるでなかったものとして扱うのです。
渋々、「じゃあ、この黒色で…」というと、とても上機嫌で、「わかった」との返事。しかし、その数分後、「やっぱりこの色が似合うよ。こっちで注文したから」と、事後報告が来ました。もう、開いた口が塞がりませんでした…。
では、これまでの経緯を読んだあなたは、もう一度、一場面の一文を見て、どう感じましたか?
実際には、私は外出中でした。でも、おそらく帰ってくるまで待つつもりのようでした。耐えられませんでした。例え、在宅していたとしても、出なかったでしょう…。怒りがこみあげるからです。
この怒りは、過去の、これまでの記憶や感情を呼び起こすものでもありますが、その感情を感じなくなったとしても(完全に癒し切った後)、境界線を踏み越えてくる、侵入してきたことへの「正当な怒り」なのです。
長年、我慢してきたことが、母にとって「当たり前」として強化され、目の前の娘が、嫌がっているという事実さえ、もはや見えないのです。「理想の娘」という幻想しか、見えていないのです。
あえて、一場面の一文を簡潔に書きましたが、書く内容が薄くても伝わりませんが、長いからいいというものでもありません。また今度は逆に、母が感じたこと、母の視点を中心にした文章となれば、受ける印象は、これまた180度変わるでしょう。
書く人の技術やセンスも必要ですが、どの視点にたって、どのように書くのか、で内容は、無数の解釈が出来得るものになる、変幻自在になる、ということなのです。それに加えて、人それぞれ、持ち合わせている「色眼鏡」が、あるのです。