私は、いつの頃からか、満月の日が近づくと、憂鬱を感じるようになった。満月の前後になると、とても感情が揺さぶられる。普段は、認識していない、沢山の過去の感情達が、現実のスクリーンに照らし出されて、いわゆる「投影」が起こる。
目の前の人や出来事を通して、過去の嫌だった感情達が、沸々と湧いてくるのだ。歯がゆかったこと、苦しかったこと、理不尽な思いに悔し涙を流したこと、はらわたが煮えくり返る想いをしたこと、涙が溢れて止まらなかったこと、などなど、忘れていたいのに、なかったことにしていたいのに、また目の前に現れる。
だから、満月の日は嫌い。だけど、その想いは、本当の、ありのままの、魂に直結した、誰にも侵されることのできない、神聖な自分の心が感じた大切な想い達。この感情達を、他でもない私自身が、その存在を認めず、踏みにじってみたり、見て見ぬふりをしたり、無いものにしてしまうままだと、私の尊厳が、私という存在が汚され、もっとその感情の渦に深く深く飲み込まれてしまう。
感じたくなかった感情達。感じないようにしなければ、生きていけなかった環境が、一時的に、「封印する」という、心の防衛本能を働かせてくれた。でも、現実を直視して、機能不全家族に生きた事実をはっきりと受け止め、本当の私として生き直す時、過去に感じた感情を、今度はしっかり感じてあげないと、その感情達は、昇華できないで、いつまでも心の中に留まり、腐敗し、何倍にもひどい状態になってしまうのだ。
心の中をクリアにしてあげないと、本当の、光り輝く魂としての私に戻れない。だから、満月の日が来ても、そこから逃げずに、その感情と向き合おう。最近は、少しずつ、そう思えるようになってきた。
今日は満月の日。人とほとんど交流せず、ひっそりと過ごしている私でさえ、神様の采配なのか、立て続けに人や出来事が絡み合う。
突然、両親が訪ねてきた。何度もかかってくる電話。私が出ないと、仕事中の夫にまでかけてくる。やっと物理的、心理的な距離を置いているのに、容赦なく仕掛けてくる両親。
父は、以前、こんな言葉をよく言っていた。母のことを「蟻地獄」と。冗談ぽく、笑いながら言っていたが、それは核心を突いた言葉だった。
その「蟻地獄」に、私を放り込んだのは誰か。そう考えると、とても悲しくなる。父に守ってほしかった。私の心を、母から守ってほしかった。悲鳴を上げ続けていた私の心を救って欲しかった。父は内心、「私がいて助かる」と思っていたはずだ。私をあてがっておけば、母はご満悦になる。全ての母の心のケアをする私が、何に苦しんでいるか理由さえわからずに苦しみ続け、心の中で、本当の私がどれほど号泣し続けていたか、思いを馳せることは一度もないだろうが。
以前も両親が来た時、積年の思いが溢れて、「電話を何度もかけてこないで!」と言って、両親を追い返した。その後に送られてきた兄からのLINEが衝撃だった。「年老いた両親にすることではない!二度とこの家に来るな!」と。
同じ不遇な環境を共に生きても、理解してくれるわけではない事、また同じ環境で暮らしても、兄妹の重症度も違うのだと、はっきりと悟った出来事だった。そして、兄もまた、機能不全家族の中で、ゆがんだ認知になってしまっている。自分だって、親のことであんなにも苦しんだはずなのに、立場が変われば、その人がどんな思いで吐露した言葉だったか、なんて考えないものだなと思った。
私は違う。人の思いが本能的にわかる。その人が、それだけ強い言葉を吐くからには、それだけの深い思いの丈や事情があることを、私は瞬時に感じることが出来る。想像することが出来る。これは、私の才能でもあり、強みだと思う。
機能不全家族に生きた人にしかわからない苦しみがある。親から健全な愛情を無意識レベルで与えられた人にとっては、たぶん分かり得ないと、私は思う。
低い自己肯定感を持たざるを得なかった人達が、自己肯定感をイチから育む、というのは、大変なこと。健全な家族に生まれていたら、自然と無意識に育っていくが、不健全な家庭に生きた人は、それを育むどころか、自分を否定される出来事ばかりを経験して、マイナスを蓄積していくことになるから。
それでも、人は再生できる。それを証明するため、自分で自分を救うことが出来ると、過酷な環境を生きても、生き生きと輝いて生き直す事が出来ると体現して、後半の人生を生きていきたい。
猛毒を持った親も、その周囲の親戚たちも、どうでもいい!私の人生は、私のものなのだから。