私は、回復への道を歩み始めてから、外国に強く心惹かれるようになった。ヨーロッパを始め、ハワイ、オセアニア、アフリカ、カナダなど行ってみたい所が目白押しだ。なぜだかわからないけれど、それは魂の深い所から求める何か、を感じるのだ。何年先か何十年先かわからないけれど、いつかは国内外の旅行だけではなく、どこかに住むような予感さえする。

 

 私は海外旅行へは、ほぼ行ったことがない。大学時代に偶然取った中国語の一環で、中国だけは行ったことはあるが、私にはどうにも合わなかった。ただ中国の思想というか、哲学のようなものや、太極拳とか、中国茶などはとても好きだ。心配性の母が、私の海外旅行はおろか、国内の一人旅さえ許さなかった。一人暮らしをしようとした試みも何度となく断念し、三度目位でようやく契約した賃貸マンションは、週末だけ泊まってみる程度だった。

 

 そんな私が初めてした一人旅は結婚してから、夫の一週間の出張に便乗して出かけた沖縄二泊三日の旅だった。その当時はまだ、原家族(私の機能不全家族である実家)との関わりを前と変わらず持っていた時期だった。数年前から交流があった人に実際に会いに行きたかった願いを叶えた。その彼女とのご縁も、かけがえのないご縁で、感謝で一杯の気持ちだった。当時を支えてくれた一人、本当にあの時はありがとう、と言いたい。

 

 彼女のシンギングボウルの音色に癒され、また私を沖縄のいろんな所へ連れて行ってくれて、美味しい食事も一緒にできて、至れり尽くせりの二泊三日だった。日中は彼女と過ごし、夕食はホテル近くのレストランに、一人で食事に出かけ、初めて一人きりでホテルに泊まる。何もかも初めての経験で新鮮だった。本当はもう一泊したかったけど、旅行に行くとなかなか夜眠れない私は、もう一泊はちょっときつかった。(それでも延期したかった…)精霊が宿っているというガジュマルの樹を見せてくれたり、綺麗な海を眺めたり、心が喜ぶということは、こういうことなのかと感無量だった。また、会う人会う人、すれ違う人も含めて、いい人ばかりで驚いた。彼女の人脈ね、と当時は思ったが、私の心が、喜びに満ち溢れていた反映かもしれない。

 

 実家には告げずに行った。告げれば、母の猛烈な言葉とともに、旅行を阻止されると思ったからだ。その作戦は功を奏したものの、いつもと変わらず、同居している兄(母にとっての息子)への不満、批判の嵐の愚痴を私に何回もメールしてきて、たびたび旅行に水を差す始末。旅行の合間に返信する私に、彼女がこう切り出した。

 

 「依存する人(私の母のこと)は、依存させてもらえる関係があって成り立つもの。だから、勇気がいるけど、依存させる側から離れるしかない。お母さんは、○○○さん(=私の名前)に依存させてもらえなくなったら、またほかに依存できる人を見つける。自分の人生を生きるために、依存させる関係をやめること。いきなり連絡を絶つのは難しいと思う。だけど、メールの返信を三回に一回とか、少しずつ間隔を空けて減らしていくの。ぜひ、それをやってみて。」と、アドバイスをくれた。また、彼女がくれた、次の言葉達がずっと心に響いている。

 

 ー沖縄のこの旅で、今までの思いをここに捨てに来たのよー

 ー胸の中に、たくさんの愛情があるのに、それを自分で堰き止めているー

 ー堰き止めなくていい。そのままの自分を出して、その愛情を周りに見せてー

 

 当時は、母から連絡が来るたびに、ひどい罪悪感に苛まれながら、必死に彼女のアドバイスを実行した。血を分けた娘が、自分の人生の主導権を取り戻すために、必死の思いで戦っていたことを、母も父も知らない。それほど、母の存在は脅威だった。 

 

 今はずいぶん罪悪感が薄れてきたものの、母は、私に対する依存だけでなく、執着心が半端なく強い。私の心を潤し満たしてくれるのはわが娘だけ、という感心するほど強固な信念を持っている。離れた今でも、きっとそれは変わっていないだろう。そう思うと、会う勇気がどうしてもまだ持てない。乾ききった砂漠に、水が落ちれば、途端に蒸発してしまうように、私の心が、焼き尽くされそうな気がして…。

 

 もう少しだけ、時間をください。私が、何事にもびくともしない自分軸を確立するまで…。焼き尽くされそうに感じる砂漠という幻想は、私の、あとわずかな心のわだかまりと一緒に消えてなくなる日がやがて来るだろう。しかし、会いたいと思う日が来るのか、今の私にはまだわからない。