今の私は、自分の言動、心模様をモニタニングし、過去に培った不要な制限や思い込みに気づいて、それを手放していくことに取り組むのが毎日の日課だ。日々の出来事に反応して、怒りや悲しみなどの感情に飲み込まれて、自分を失うことが一時的にあっても、後から心の余裕が出てきた時に、自分を振り返る。魔法のように、ひとつ呪文でも唱えて、ぱっと手放していけたら最高だけど、ひとつずつ地道に気づいては、次はここに気を付けよう、と新しい課題が見えてきて、それをクリアするというステップを踏んでいる。まるで、宝探しゲームのようだ。本来の自分という宝に還るため、戻るための道のりである。
「自分を生きる」という通信セミナーの教材を使って、いろいろなヒントを得ながら、毎日が試行錯誤である。自分で気づいて意識できるものは、手放しのゴールがちらほらと見え隠れしている段階にまできているが、それ以上に今、どうにかしたいと思っていることは、自分でまだ気づかずに無意識の過去の反応や制限、思い込みがとっさに身体や心の反応として出ている領域を、より早く軽くしていく方法を模索中である。例えば、自己ヒーリングとか、ヒプノセラピーなど、ジャンルに囚われずに、効果のあるものも見つけていくつもりである。成果が出たものがあったら、またブログにもupしていきたいと思う。
機能不全家族の元で育つ、ということは、平たくシンプルに言えば、「自分の心に焦点を当てることが、できなかった。」という一言に尽きると思う。不安定な環境を生き抜くために、自分以外の人の心模様に敏感にならざるを得なくなり、世話をし、混乱した環境を乗り切るために、そして被害が最小限で済むように、0か100か思考、支配(コントロール)、特定の役割を身に着ける。また同時に、自分のことに関心を持ってもらえず、満たすことのできない大きな心の空洞を直視して、はっきりと認識してしまえば、その環境を生き抜くことが出来なくなるので、自分の心の思いを封印することで、被害者意識を持たざるを得なくなる。
でも、本当の魂の私は、そのことで悲鳴を上げ続けることになり、年数が長くなればなるほど、癒すべき感情が大きく深くなってしまう。幼少期から蓄積したものは、大人になり、いざその状況の異常さに気づくきっかけが訪れて、過去の未完了の感情達を癒そうと決意した時には、自分一人ではとても解消できない程のサイズになっていたりする。ケースバイケースだが、程度が軽ければ、一人でも解消していけるかもしれない。でも、癒し度の大きさと深さによって、心理の専門家の手を借りることが、必要不可欠である。
回復への道のりの歩みは、時として少しずつ、でも確実に心の大掃除はできていて、綺麗に軽くなっていくことは感じるけれど、時々どうやったら、この未完了の感情を癒しきるのか、誤った思い込みを外していけるのか、途方に暮れることもある。そんな時は、やっぱり先を行く人達に教えてもらっている。今まで、心のSOSを発することが出来なかった私が、助けてほしい時には、素直に助けを求められるようになった。これも前より少しずつ、できるようになってきたなとじんわり実感する。
0が100かの思考癖を持つ人は、この小さな小さな成功、喜びを、自分自身に対して、大げさなくらいに褒めたたえることは、とても大切なことである。回復の道を歩む上で、成長の証を自分に認める作業も、生きる実感を取り戻す上で重要なのだ。
回復の道を歩む私は独りぼっち、という孤独(最愛の夫はいる)や寂しさが心のどこかにあったけれど、神様はちゃんと応援してくれていて、私の人生に新たな展開を与えてくれる。生きるパワーを感じられることも増えてきている今日この頃である。
人と接する場面で、ついつい他人軸になってしまう癖が出てくるけれど、そんな自分を責めずに、自分の心に焦点を戻す、という好ましい心の新しい習慣をつける練習を日々行っているところだ。