過去が現在に与えている影響を検証しながら、並行して「境界」について学び直している。

 

 

 生まれた時から40年もの間、べったりと母にくっつかれていた私には、そもそも「境界」がない…。境界を侵された状態とも言うが、私の場合、母と一体化していたので、自分だけの境界を築く余地はなかった。いつも私は不機嫌だった。そんな私のことが大嫌いだった。どうしていつも不機嫌なのか、当時はわからなかった。

 

 

 でも、今振り返ってみて、改めて気づく。「不機嫌」であるのは、当然であったのだと。私という個を尊重してもらうことが、一度もなかったのだから。蛇の生殺し状態である。本当の私は、いつもいつも心が母とべったりくっついていることが嫌で嫌でたまらなかったのだ。嫌と言えないから、不機嫌になり、ただ耐えるという状況を作っていたのだった。そこから抜け出すことなど思いつく余地もないほど、無意識化で支配されていた。

 

 

 健全な境界とは、人と自分を区別するものであると同時に、境界があることで、人と自分をよりよくつなぐものだ。私はいわば、壁や門のない家に住んでいるようなもので、いろんな人が入りたい放題となっていた。これで、プライバシーが保たれるはずがない。だから、優しくされれば無条件に嬉しい。でも、人から不快な扱いを受けても、それを断る術を知らなかった。あまりにひどい時は、怒って高い壁を築くという極端なやり方になりがちだった。それでは、私の心模様は、相手次第になってしまう。健全な境界があれば、自分を守ることが出来る。不当なことは当然の権利として断り、心に入れるか入れないかの選択が、本来はできるもの。

 

 

 境界がなかった私が、適正な境界を設定しようとすることは、とても労力を要する。健全な境界へと持っていこうと思う前に、今まで染みついていた無意識の反応の方が先に出てしまうのだ。でも、その都度、振り返り、あれこれ工夫して、練習の繰り返しだ。愛情を受けて育った子どもは、その練習を小さい頃からやり、適正な境界を築き上げる。自分が小さな子供に帰ったような、複雑な気分にもなるが、私は、今から始めるしかない。前を見て、一歩ずつ進んでいく。いつか振り向いた時、いつの間にか人と心地よい適正な距離感になってきたなと気づける、その時まで。