「共依存」という言葉が、少しずつ認識され始めていると感じる昨今ですが、
私が、この言葉を知った頃は、まだあまり聞きなれない時代背景でした。
私は、自分の体験をきっかけに知ることになりましたが、
一般的に、「共依存」とは、どのようなことを言うのか、私なりの解釈も含めて
話してみたいと思います。
「共依存」という言葉は、アメリカで生まれました。
もともとは、アルコール依存に苦しむ当時者と、その世話をする家族との関係から
生じた言葉です。
例えば、アルコールに依存する夫と、それを支える妻。
妻は、アルコールを辞めさせるべく、いろいろな策を練り、夫の生活を支えるのですが、
妻が、依存症の夫を懸命に支えれば支えるほど、夫はますますダメになり、依存状態が悪化していきます。
ここでいう妻が、「共依存者」という立場にあたります。
ある本の一節に、こうありました。
「共依存」とは、自己の喪失である、と。
依存者と、それを支える共依存者。
依存する人というのは、依存させてくれる人(もしくは対象)がいないと成り立たない関係です。
そして、依存する人は、自分を自分で満たすことができない、もしくは、しない為に
人や対象に依存することで、自分の価値を見出そうとする人のことを言います。
私は、過干渉が原因となる母娘共依存、という状態でしたので、
アルコール依存とは、全く立場的には違うのでは?と思う人も多いと思います。
私も、最初はそう感じました。程度が違う、と。種類も異なる、と。
確かに、程度の差は、家族の数だけ(共依存の年数など)あると思うし、全く同じということはないでしょう。
でも、根っこにある問題、心のパターンとしては同じなのです。
対象が違うだけです。
依存する対象は、アルコールやギャンブルだったり、性的、身体的虐待など。
私の場合は、精神的虐待に該当すると思います。言葉だけ聞くと、そんな大げさなと思うかもしれませんが、
自己を喪失し、依存者の世話だけにあけくれる、依存者の為だけに生きる、という関係は、共依存です。
子のありのままを認めず、自分の思い通りに支配し、コントロールすることは、精神的虐待になります。
子が自分で考え、自分だけの選択に基づく経験をさせず、成長できない状態に置くのですから。
操り人形です。まさに、母の人生を生きている、と言えるのです。生きる屍、という状態です。
過干渉の場合、親がべったり子にくっついた状態で、子を自分の友人のような、仲間のように扱うことは一見すると、ただ仲が良いだけととられがちです。ですが、親にべったりされる子は、自分の領域(境界)を守ることが出来ません。
いつも、自分の領域に侵入されている状態です。
いわば、自分という家に、壁や門もない、いろんな人が入りたい放題の家、という感じです。
それでは、プライバシーも自己の在り方も守れず、自己を確立させていくことが出来ません。
例えば、先ほどのアルコール依存の夫が、酒を浴びるほど飲もうが、トラブルを起こそうが
お金が無くなろうが、妻が、これは夫の問題だと捉えて、どうにかしようとせず介入しなければ、どうなると思いますか?
依存症の夫は、自分の行為を自分で責任を取るしかなくなるのです。
自分の問題に、目を向けざるを得なくなります。ここに鍵があるのです。
共依存から抜け出すための大切なポイントが。
共依存関係は、終わりのないゲームなのです。依存者は、依存することを辞めることはありません。
その関係を終わらせるには、「共依存者」が、そのゲームから降りる以外にありません。