さて前文は「音楽と科学」という僕の愛する音楽と科学について書かれたお話でした。(ちょっと哲学的になってしまいましたが…。)

僕はイマ、音楽と科学の狭間に生きています。

これから、その二つについて又はその二つを合わせた話を書いていきたいと思います。


しかし…。今週はテストの為更新しない予定です。あしからず。 

人間の比較することによって物事を把握するという性質から、この二つの全く異なる分野の「違い」はよく取り上げる。かのアインシュタインが「ニュートンやライプニッツがこの世に生まれていなかったとしても世界は微積分を手にいれたでしょうが、ベートーヴェンがいなかったら交響曲第五番ハ短調『運命』は決して得られなかったでしょう。」と述べたように、科学の探求する世界にはあらかじめ“形”があり、科学者は研究によってすでに存在している構造を露わにしているのに対し、音楽の世界には元からそのような構造、“形”は存在せず、作品の全体としての構造に責任を負う。このことから、先程のアインシュタインの言葉にもあった通り、「科学の成果は誰がやっても同じであるのに対し、音楽作品はそうではない」ということができる。これは私の実生活にもいえることで、科学の問題は容易に理解できるが、楽器での表現は理解しづらい。

また、哲学者イマヌエル・カントは「“天才”は科学者のなかには存在せず、芸術家のなかにのみ存在する。」と言っている。確かにニュートンのような科学者は“天才”としてしばしば描かれるが、科学者は自分が成し遂げたことや、何故それを成し遂げたかを自分たち自身にもそれ以外の人たちにも説明することができる。つまり、科学者は自分たちの仕事を他人に教えることができるということである。一方、芸術家すなわち音楽家は“オリジナルな”作品を生み出し、その創造の秘密は謎であり、今後とも時代背景やその人の生涯を知ったとしてもその人が作品を創る際に本当に思っていたことは知りえない。カントはまたこう続けている。「ニュートンは幾何学の第一原理から出発して、偉大で深遠な発見に到達するまでに踏まなければならなかったステップの一つ一つを、直観的に明らかな方法により、自分に対してだけではなく他のすべての人に対して説明し、そのステップを他人も辿れるようにすることができた。ところがホメロスのような偉大な芸術家はそうではない。生彩ある詩を書くことは、いかに詳細な指導書があったとしても、またどれほどすぐれた模範があったとしても、学びうるものではないのである。」やはり、これも私の実生活でもいえる。科学の授業で先生の言っていることを理解できれば完全にその内容を覚えることが可能であり(とはいえども実際のところ完璧に理解する技量は無いが、本質的には可能という意味で。) 、テストで点数が取れるのに対し、楽器を先生に習ったとしても先生の綺麗な音色・表現力に近づけることができるとしても、全く同じようにすることは不可能である。

さて、これまで音楽と科学の“違い”すなわち相違点についてまとめてきたが、これからは音楽と科学の類似点について考えていく。少し科学に重点をおいた話になるが、科学者オーウェン・ギンガリッチは音楽のような芸術と科学のありがちな“違い”のみを述べる対比に異議を唱え、「科学者も多少は自分の作る理論の構造に責任を持っている。つまり、科学の全体としての“絵”の構成は自然によってあらかじめ決められているわけではない。」と述べた。例えば、ニュートンの世界体系は必ずしもあのようなものである必要がなかった。なぜなら、ケプラーの法則という形で表された天の現象に対しては、保存則のような別の経路を通って、ニュートンとは別の説明を導くことができるからである。すなわち、ニュートンの理論・体系は彼独自のものであって、その偉業が成された際には“想像力”が大きく作用したということである。ギンガリッチはこう結論した。「ニュートンの著作『プリンピキア』は“想像力”という点においてニュートンをベートーヴェンやシェイクスピアと同列に置くものであり、ニュートンその人のみが達成することができた個人的偉業なのである。」確かに、楽器の音色や奏法・表現方法が一人一人違うのと同様に、科学実験のレポートの考察の仕方は十人十色でそれぞれに“個性”すなわち個々の“想像力”が働く。

また、ギンガリッチは「科学の大理論によって成し遂げられる知の統合と、作曲によって構成要素間にもたらされる秩序とは、何から何まで同じというわけではない。科学理論は自然の中に指示対象をもち、実験によって検証されたり、拡張されたり、変造されたりする」と述べ、音楽をはじめとする芸術と科学との類似性があまり緊密なものでないとした上で、ベートーヴェンとニュートン、すなわち音楽(芸術)と科学の類似性と差異を注意深く分析することで「科学的創造性について、より繊細な見方ができるようになる。」としている。カントの議論等に代表される音楽と科学の従来行われてきた“違い”の強調は、科学理論が“美しい”ものであう可能性を否定しているのに対し、ギンガリッチは科学理論の“美しさ”に居場所を取り戻しているように思える。また、フランスの哲学者であり科学者のジャン=マルク・レヴィ=ルブロンはアインシュタインがこの世に生まれていなかったらという思考実験を行った際、その結果から得られた相対性理論は、今日ある相対性理論とは、用語も記号も概念も大きく異なっていたことからもそういう科学における“想像力”の必要性やそれに伴う“美しさ”について考えることができる。よくこの数式は“美しい”だとか“美しくない”だとかとやかくいう数学の教授がいるのだが、大概の生徒はこれに対して「この人は何を言っているのだろうか?」と思うのに対し、私は「本当だ。実に美しい。」と思うタイプの人間である。だからこそ私は科学の“美しさ”について考えることが多いのだが…。いずれにせよ私は科学にも音楽にも“美”が存在し、ともにその“美”を作る際には苦労やそれを導くための人間の持つ“想像力”が関係していると考える。次も“美”に関連する科学における「実験」の話をしていく。

しっかりと計画された「実験」には、自動的に進んだり、お決まりの処理で済んだりする部分はひとつもない。結果ではなく、プロセスという観点でみるとそれが理解できる。ある「実験」がいかにして成功したについ論じるならば、伝記といっていいほどの物語が必要になる。そこには発端があり、計画期間があり、成長があり、時に運もあり、成熟があり、子の誕生がある。このプロセスには前にも記したカントが天才と呼ぶものの関連があることは疑いの無い事実であり、そこには既定のルールなどは存在しない。そう考えると特に「実験」においては芸術的な要素を持ち、科学と音楽が近いことを示ししているように思える。やはり、先程記したように音楽も科学も“想像力”が必要という点で同じである。また、その科学の“想像力”は音楽の“想像力”と同じように、鍛錬によって磨かれる。科学の“想像力”はすでにある資源・理論・予算・人員といった制約の中で発揮され、こうした要素を素材として、何か新しいものが姿を現すことを可能にするような作品を作り上げて舞台にかけるのである。特に「実験」における“想像力”はゲーテが「制約の中にのみ、巨匠の技が露わになる。」と言ったように、目の前の資源を制約としてではなく、可能性としてみえる。

なるほど、確かに本当の「実験」は私たちが教養棟でやった、ただ教科書を見ながら手順通りに作業をする『自然科学実験』とは違い、自分で仮説をたて、計画を立ててから試行錯誤を繰り返しながらするものである。もちろん、その時には“想像力”が存在し、その「実験」により仮説が正しいと証明された際には、そのプロセスが“美”を作り出す。しかし残念なのは、たとえ仮説が証明されたとしても音楽とは違って、「作品」すなわち「結果」だけでは“美”が伝わりにくいという点である。これは、先程の数学教授の例からもいえて、彼が解いている数学の証明の一部始終とその際の彼の熱意と努力をしっかり観ていなければその数式に“美”は感じない。しかし、音楽がこうしたプロセスを観る事によって生じる“美”と無関係であるかというとそうでもないと私は思う。もし、ベートーヴェンの作品を聴く際にそれができるに至った経緯を知っていれば更に“美”を意識できる。すなわち、感動を得ることができる。音楽においても作曲家や作品に関して無知であったならば「感動」、“美”への意識は、半減されるだろう。また、高校の定期演奏会に関しても似たような経験がある。その演奏会は自分にとってはすごく感動した演奏会であったのだが、お客さんから散々バッシングをうけた。このことは結局、一生懸命練習した私たちとお客さんでは演奏会が完成するまでに至るプロセスに対する認知のギャップがあったから生じたのではないかと思う。時にして、そのプロセスによる“美”意識は私たちに良くも悪くも幻影のようなものをみせ、その濃さによって人々の「感動」の度合いが決まるのではないかと思う。それは、音楽にも科学にもいえる事である。私は音楽と科学を志すものとして自分の中の“美”にとらわれて自己陶酔をすることなく、自分の「想像力」をフル稼働させ、他にも認知できるような“美”のかたちを音楽と科学を通して誰かに伝えていきたい。

私にとって、音楽は科学を理解する上で、科学は音楽を理解する上で欠かせない存在である。私は自分の中でいいから、それらを愛することで最初にもあるような、それぞれの難題である「音楽とは何か?」、「科学とは何か?」が理解できるようになりたいと思う。それに時間が掛かったっていい、そうすることによって“美”が生まれ「想像力」が豊かになっていくのだから。

参考文献:ロバート・P・クリース、青木薫・訳

    『世界でもっとも美しい10の科学実験』

日経BP社、2006年