移植への道と法改正への願い | そうちゃん日記 

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聡太郎は生後10ヶ月で拡張型心筋症と突然診断されました。
海外での心臓移植手術を目指した日々。しかし、移植手術を受ける事は出来ませんでした。
経験しなければ伝えられないことがあることを感じ、聡太郎の残した何かを伝えられたらと思います。

「誕生からセカンドオピニオン」    ~聡太郎の月命日に寄せて~          



聡太郎は、日本時間の2008年12月11日にアメリカのロマリンダで短くも強く生き抜いた人生を終えました。

募金活動を行わせて頂きました。渡航も出来ました。本当に多くの皆様からご支援とご協力と愛を頂きました。

しかし、移植者待機リストの最上位に登録されたにも関わらず、拡張型心筋症による心原性ショックで亡くなりました。

あれから3ヶ月。聡太郎と同じように、海外での移植を目指しながらも3名の尊い幼い命が失われました。

日本で救える技術と管理能力があるのに、日本では救えない。しかし、海外でなら助けられるという望みに命を託して・・・。


聡太郎は2007年8月24日(40週と1日)の14時52分に3336gで誕生しました。

私たちにとっては第一子でもあり、両家にとっては初孫でした。

だからなのか、本当に可愛がられていたと思います。

パパに見守られながら誕生した聡太郎。真っ赤になって泣き声を聞かせてくれ、小さな手をしっかり握り締めている姿は、本当に素晴らしいと思いました。妊娠期間中の一心同体の時間から、一人の人としての誕生は、嬉しくもあり不思議で、寂しいような多くの気持ちが到来しては去っていき、聡太郎に出会えた感動が残りました。


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出産までは私のお腹の中で常に一緒にいたのに、生まれてからは聡太郎の姿や表情や成長に一喜一憂の毎日です。元気に生まれ、育ってくれて、本当に良かったね!と、何度つぶやいたことでしょう。

赤ちゃんの表情や仕草から、だんだんと子どもらしくなり、首が据わり、寝返りをして、お座りができて、つかまり立ちもしそうな時期。赤ちゃんせんべいも食べられるようになり、歯は4本生えました。

可愛い顔で撮れた写真を見ては、パパに似てるとか、ママだとか言いながら過ごしていました。

子育てに専念しようか職場復帰かと考えるようになったとき、保育園は0歳から入園しないと1歳では待機児童も多く、入れるか分からないと言われ、生後7ヶ月の4月1日から保育園に入園。翌5月には、私も職場復帰をして生活のリズムが出来てきたと思っていた矢先の、忘れもしない6月29日に大学病院に入院となりました。


入院するまでは、貧血様症状や喘息様気管支炎などの症状、頭に多量の汗をかく、顔や足に浮腫みがあった、熱が出たりなどの症状があったように思います。特に、レントゲンで大きくなっている心臓を見た時に、左胸が右胸よりも大きく張り出している印象が気になっていたことを先生に伝えた記憶があります。

その時に診ていただいた先生には、心臓の所見には関係ないと言われましたが、拡張型心筋症や拘束型心筋症のお子さんのお母様方に話を聞くと、表現は多少異なりますが、だいたいの方が左胸の方が大きかったと話されていました。


そして入院をしてから3日目の呼吸器管理。

この時には、拡張型心筋症や心筋炎だったら2週間が勝負と言われていたのですが、心臓が悪すぎる状態では、呼吸器の処置で使う薬によって心臓が止まってしまう可能性もあると言われました。その確立は五分と五分。やってみなければ分からないとの話でした。パパも職場に事情を話して飛んで来ました。

本当に聡太郎は頑張って、呼吸器管理と全身管理下でICUでの日々を乗り越えてきました。

先生に「私たちは諦めないから、先生も諦めないで下さい。」と、必死で訴えた瞬間の張り裂けそうな私たちの想い。

今は知っています。諦めないでと訴えなくても、先生方は諦めないでいてくれる人ばかりでした。

そして、それが小児科医なのだと教わりました。


2週間が過ぎ、私の中では次の目標が「聡太郎が笑顔で1歳の誕生日を迎えられること」に変わりました。

毎日毎日、小さいことを気にしながら、小さい変化に喜びを見つける日々でした。

呼吸器の管、点滴の数も多く、体のあらあゆるところに様々な医療機器がつながっていました。

話すことも、体の自由も、何もかもが奪われたかのようにベッドの上で絶対安静の生活が過ぎていくなか、初めて聡太郎の歯が新たに生えていることに気がついた時には、失われていくことばかりではない聡太郎の成長に大きな勇気と感動を与えてもらいました。

聡太郎は生きている、生きようとしている、成長も発達もしているんだと。

誰でもない聡太郎自身が私に教えてくれました。


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そして、2008年8月24日・・・1歳の誕生日をICUの個室で迎えました。しかも、本当に笑顔で。

鼻から呼吸器がつながっている状況でも笑顔を見せる聡太郎に、子どもの健気な姿と純粋に生きる強い力を感じながらの誕生日でした。ケーキや一升餅を用意して、元気な時からお願いしていた三輪車も買ってもらって、看護師さんからもお祝いの言葉やお部屋の飾りつけをしてもらって、出来る限りのことが出来た最初で最後の誕生日でした。


しかし、この1歳の誕生日を笑顔で迎えてくれた聡太郎に、私は生きられる!聡太郎には次のステップを考えなければいけないと素直に思いました。

そのころ、入院してから2ヶ月という時間の経過もあり、先生方の治療方針も検討されていたように思います。

内科的治療を続けてきたきた結果の聡太郎の心臓の変化は・・・。

改善は見られない。


聡太郎は拡張型心筋症という病気を背負って生まれてきてしまった。

聡太郎は必死に生きようとしているのに、親が勝手に聡太郎の人生を決められない。

聡太郎はどうしたいの。

聡太郎は生きている。聡太郎は生きようとしている。

でも、拡張型心筋症として生まれたのなら、助からない命として納得するしかないのか。

聡太郎。

生き続けるために?それとも、限られた時間として受け止める?

どうしたいの。どうしよう。どうしたらいいの。どうなるの。

そういう気持ちの果てしない繰り返しの中で、セカンドオピニオンを受けました。


セカンドオピニオンでは、この子には来年はない。今年、移植が受けられるかどうか。

でも、うちでは今年は無理だから、その場合、聡太郎に来年はない。。

移植はバラ色の人生だなんて思ってもらったら困る。とっても大変なことなんだから。

医者だって必死でやってる。でも日本で出来ないからアメリカに行くという状況そのものが特殊なんだよ。

みんなが受けられる医療じゃない。

よく考えなさい。


というような内容だったことを覚えています。


その時、移植は無理・・・。と言われて、心の片隅では「移植ができない」と、先生が決めたんだと思いました。

決めたのは先生。私たちではないと。

でも、考えれば、助けられる命が助けられないのか、もともと助からない命の病気だったのか・・・。

大人には与えられる生きるチャンス。子どもには与えられない生きるチャンス。

大人と子ども、守られるべき命に違いがあったのか。

違いがあるなら、子どもこそ優先して守られなければならない存在ではなかったのか。


そんなことばかり考えても、答えは出ません。


聡太郎の先生と話し合い、先生からドイツかアメリカで今年の枠のある病院を調べて頂けました。

そこからは、悩み続けた毎日でした。今度は、決めるのは私たちです。

移植をする。と考え始めると移植をしない方に考えが向き、移植をしない。と考え始めると移植をする方に考えが向く。

でも、倫理や法案や募金活動や社会的問題の前に、私たちは聡太郎にどうあって欲しいのか・・・。

私たちは聡太郎に生きていて欲しい。生きられる方法があるのなら、何があっても生きることを選択したい。


そして何よりも、生きている聡太郎の笑顔が全てでした。



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日本で子どもに移植と生きるチャンスが与えられていない理由を考えました。

意思表示・・・民法の15歳・・・15歳未満は認めない・・・理解できない。

脳死・・・人の死・・・長期脳死児・・・親の気持ち・・・理解できる。

移植・・・臓器提供・・・する・しない・・・受ける・受けない・・・選択・・・理解できる。


私は、脳死状態と言われているお子さんに出会ったことはありません。しかし、そのお子さんのご両親が奇跡や心臓の動いている状態に対して抱く気持ちは、私が聡太郎に生きていて欲しい。生きている。と強く感じ、強く願っている気持ちと同じなのではないかと、思いを重ねることは出来ます。

いつも、今も、聡太郎への私の気持ちを書く時に頭をよぎるのは、脳死の状態でいるお子さんをもつご両親の気持ちも、また、私たちと同じ気持ちなのではないだろうか・・・という思いです。


移植に関しても、提供する・したくないという気持ちも、移植を受ける・受けたくないという気持ちも、尊重されるべき気持ちだと思います。

しかし、命の問題に年齢という大きな壁があることだけは理解できません。

提供側の15歳と14歳では、何が違うのか・・・8歳や15歳で決断ができる子どももいれば、30や40歳を過ぎても自分で決められない大人もいます。

そして、自分自身が死を迎えたとき、その「死」は誰のために遺されるのか。

私は個人的に、遺された家族のものと考えています。遺されて『生きていかねばならない』家族が死を受け入れて、どう判断し納得をしていくのか。医療者はどのようにサポートできるのか。


日本では臓器移植法案が再度審議されることはなく、10年の歳月が過ぎようとしています。


聡太郎の命は、日本では切り捨てられる命。

親や小児科医や移植医が助けようと強く望んでも、日本には世界に誇れる技術と管理能力があっても移植が出来ない。

アメリカやドイツでは、移植医療は自国で行っている医療の一つなのに。


そうして、多くの先生と話す中で、

日本では、移植を選択することも、選択しないことも、とっても厳しいこと。

移植を選択しても、しなくても悩み続けること。

同じ病気や先天性心疾患で移植が出来たら助かる命も、日本では移植を望んで誰でもが受けられる医療ではないこと。海外へ渡航するということは、一般的には募金をしなくてはならないこと。

今、目の前に移植への道が拓かれている事、移植を選択できる状況があることが奇跡なんだということ。

地域や病院によっては、移植の話すら出ない場合もある。

ということを知りました。


そのような背景の中で様々な状況を克服しながら、移植への道を選択しました。


そうして、今は思います。

今後、このまま法案が改正されないままでは、海外でも、日本の医療技術でも、救える命も救えないままになってしまいます。

WHOのイスタンブール宣言に続く、「自国の臓器は自国で」という世界の流れ。

日本の子ども達の命の問題は日本国内で守り救えるように、考えて頂きたい。

そのように願います。



現在、わが国で施行されている「臓器の移植に関する法律」で15 歳未満の子供が脳死で臓器提供者になることができず、そのため子供が臓器移植、特に心臓移植や肺移植を受けることができない問題があります。この問題を改善していくために、現在国会にて審議されている第一六四回衆第一四号(中山案)の5月までの早期決議を求めるための署名活動(自筆による物)のお願いをさせて頂きます。


5月までの早期議決を求めるためには、3月末までに署名を集めなくてはなりません。

どうか、再び、ご協力とご理解を頂けますよう、お願いを申し上げます。

詳しくはこちらをご覧下さい。

http://koscompany.gozaru.jp/

署名用紙もダウンロードできます。


中山案の大きな改正ポイントは

・本人の意思が不明な場合は遺族が臓器提供に関する判断することができるため、有効な意思表示を行えないとされている十五歳歳未満の者に関しても家族の判断で臓器提供できる。改正案でも児童虐待のおそれがある場合には、臓器提供をすることができない。

・脳死は人の死であるということを、本人が生前に拒否している場合、あるいは、家族が拒否する場合には、法的脳死判定は行われず、脳死にはならないため、死亡宣告はされません。


上記の法案が認められる場合には、移植に関わる全ての方へのメンタルケアや、国民全体への倫理・生命についての教育などへの配慮も十分になされなければならないと思います。


移植件数を伸ばすためではなく、小児の命に対して年齢による制限をなくして頂きたい。

それが、今の私個人が求める大きな願いです。


どうか、宜しくお願い致します。


次は、この署名活動までの経緯をご報告できたらと考えています。