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【進行性筋ジストロフィーとは?】
最初に僕の患っている進行性筋ジストロフィー(デュシェンヌ型)について、簡単に説明します。

進行性筋ジストロフィーはいくつかの型がある遺伝子疾患で、僕のデュシェンヌ型は筋ジスの中でも重症度の高い部類に入ります。

この病気を例えるなら、生まれつき人間を作る上で必要な設計図から、筋肉のページが削られている、もしくは読むことができない状態になっています。

症状としては全身の筋肉が徐々に萎縮していくのですが、目に見えるところであれば歩行困難や握力低下などから始まり、それはやがて、心臓や肺などの臓器にまで及び、年齢が上がるにつれ、臓器不全を補う投薬や、呼吸器、吸引器、胃ろうなどの処置が必要になってきます。

現在、世界で治療の研究がされ、特にips細胞には大きな期待がされていますが、未だ決定的な治療法はありません。

【幼少期~京都市立K小学校時代】

僕は1980(昭和55)年に愛知県名古屋市で生まれ、家庭の事情により、生後しばらくして母と姉と一緒に親戚の暮らす京都市に移り住みました。

僕に筋ジスの症状が覗き始めたのは、T保育園の頃でした。他の園児よりも足が遅く、転ぶ回数も多かったのです。今思えば、ふくらはぎが異様に肥大していたのも、過性肥大という筋ジスで良く見られる症状でした。

僕が筋ジスであると診断を受けたのは小学2年生のときでした。専門医に受診したきっかけは、良く転ぶ、歩行が不自然などの要因もありましたが、プレゼントしてもらった自転車を補助輪があっても漕ぐことができなかったことだったと思います。

検査の結果、筋ジスであることが決定的になり、家族、親戚はとても悲しんだと聞いています。絶望感があったのは容易に想像できます。今は医学の発達により、平均寿命は30~40歳と言われていますが、当時は20歳と言われていたのですから…。

それからすぐに僕も家族から筋ジスだと聞かされました。僕の家(特に看護師だった亡き叔母)の考え方は、子どもであろうとすぐに告知をし、病状についても細かく説明するというもので、僕はそのときのことをあまり覚えていませんが、とにかく悲しかったこと、「いつか必ず治療法が見つかるから諦めなくていい」という、叔母の言葉だけは鮮明に覚えています。

その頃くらいから歩行の不自然さも際立つようになり、学校の先輩や後輩、それまで仲の良かった友達からのイジメが始まりました。後輩には「歩き方変や」とからかわれ、仲の良かった友達には帽子を捨てられたり、無視されたりしました。最も酷いときは、6年生に下校中ずっと足を蹴られ続け、最後に右肘を折られました。

その後もイジメは続きましたが、それでも僕は学校が好きでした。何故なら、いつでも家族やクラスメイト、担任の先生が守ってくれたからです。特に5年生のときのクラスメイトは、僕がイジメられていると、誰かが必ず間に割って入って助けてくれました。

当時、僕は極度の泣き虫で、イジメられるとすぐに泣き散らかして、子どもから大人まで巻き込んで大騒ぎしていたので、同じ子からイジメられることはほとんどありませんでした。右肘を折られたときも、助けてくれたのは近所のお巡りさんでした。

5年生になって、僕は突然、階段の昇り降りに恐怖を感じ、2階の教室まで毎日、担任の先生におんぶしてもらうことになりました。

それまで学校側には手すりの設置やトイレの洋式化、教室を通常3階だったところを2階に変更していただいたり、いろいろと配慮していただきましたが、僕の負担や学校側の負担を考え、話し合った結果、3学期のスタートから京都市立鳴滝養護学校(現支援学校)に転校することになりました。

【鳴滝養護学校(宇多野病院)時代】
転校(入院)の日の夜、僕は病室の布団に潜り込んで泣きました。一晩も二晩も一週間も。

当時は高校を卒業しても、退院して進学や就職する概念がなく、在宅生活をするにしても、今のように介護業界、在宅医療も整っていなかったので、成人になっても入院生活を選ばざるを得ない方が多かったのです。なので、僕はもう家には帰れないと思いました。

それから一週間後、初めての外泊をしました。今なら一週間短く感じることもあるのですが、小5の僕にとって、親兄弟や同級生と離れての生活は、とても長く悲しいものでした。

同じ病気の子どもたちの中での生活。同じ境遇の子どもたちに囲まれ、皆さんはそういう場所ではイジメが起こらないと思っていませんか?

実はそれは誤った考え方です。同じ病気でも、年齢、進行度合いによって格付けが行われ、入院当初は普通校と変わらず先輩、後輩からの嫌がらせを受けました。

僕も入院から1年も経つと、車椅子の先輩たちのお手伝いをするようになり、先輩たちの信頼度も高まっていく中で、新しく入ってきた後輩たちに嫌がらせをしていたこともありました。

たぶん、これを読んでくれている当時のスクールメイトにも、嫌なことしてたんだろうなァと、今更ながら反省しています。

この頃から悪がき度が高まっていき、同クラスの2人とイタズラをするようになっていきます。周囲からは「3バカトリオ」と呼ばれていました笑

思い返せば、3人で授業中におなら合戦を始めたり、夜の学校に進入したり、院内で隠れてお菓子を食べたり、病棟では混ぜるな危険の洗剤を混ぜて毒ガスを発生させたり、勉強もせずにアホみたいなことばかりしていました。でも、これはまだ氷山の一角です笑。良く今でも当時を知る方々に合うと、落ち着いたなァと言われますf(^^;

僕に限っては本当にアホな子どもでしたが、皆さんに知ってほしいのは、どんな病気であっても、病気でなくても、子どもは誰もが同じだと言うことです。

とは言え、当時の成人患者さんや友達、学校の先生、看護師さん、病棟の指導員さん、保母さん、その節はご迷惑ばかりお掛けし、どうもすみませんでした(>_<)

中学生になり、徐々に車椅子生活が長くなりました。僕は相変わらず勉強はせず遊び呆けていました。テストは0が続き、追試、追試の毎日でした。でも、その中で唯一、通知票5を誇っていたのが体育です。この鳴滝養護学校は卓球バレーという障害者スポーツ発祥の地で、僕は部活(体育部)でこれに打ち込み、中3から高校卒業まで主将として府大会、市大会の全大会で優勝しました。

卓球バレーとは→web.kyoto-inet.or.jp › framepage0302

この体育が得意だったお陰で、高3のとき、京都市代表として障害者国体(横浜大会)に陸上2種目で出場することができました。このときの感動や甘酸っぱい思い出は今でも大切な思い出です。

高校生になり、やはり勉強はしませんでしたが、この頃から、体育部の部長や生徒会、委員会の会長を務めるようになり、今の電動車椅子サッカーの監督の基礎が出来上がった気がします。

この頃、卓球バレー以外に精力的に打ち込んでいたことがあります。それは、サッカーとバンド活動です。サッカーは電動車椅子サッカーではなく、体育部で自分たちでルールを作り、車椅子、電動車椅子関係なく一緒にプレーできるものでした。部活の時間や放課後に体育館を借りて、サッカー好きが集まって消灯ギリギリまで遊びました。今、考えるとこの頃から電動車椅子サッカーをやっていれば…と妄想します笑

バンド活動は同級生とやっていました。先生の中に音楽活動をやっている方がいて、放課後にボランティアとしてギターやキーボードなどの楽器の演奏を教えていただきました。僕はお調子者で目立ちたがりやだったので(今もか笑)、ボーカルをしていました。本当の動機は男子なら誰もが考える不純な動機です笑。

みんな、めちゃめちゃ下手くそでしたが、高3の卒業記念行事では自分たちで企画・運営し、多くのボランティアさんの協力を得て、200人規模のホールでコンサートを行いました。このコンサートはその後、更に規模を増やし、2度行われることになります。この経験は僕が大人になる上で本当に大きなもので、人生において宝になる経験でした。

高校時代は特に看護師さんに迷惑を掛けました。今でも繋がりのある看護師さんはご存じかもしれませんが、これは今でも汚点として反省しっぱなしです。

転校(入院)したあの日、僕は一生病院で過ごすものだと思っていました。でも、僕が在学中、先輩たちが次々と在宅生活への道を開いてくれたお陰で、卒業後、退院し、今の僕がここにいます。

ちなみに今では入院する筋ジスの子どもは少なくなり、大抵の子は普通校に通い、後輩たちは大学進学や就職する時代になりました。中には一流企業に勤める子までいます。

僕は入院していた7年間、遊びっぱなしで後輩たちに何か残せた自信はありませんが、先輩たちが築きあげてくれたものを、しつこいほど生きてしっかり後世に伝えていけたらと思いますし、筋ジスに限らず、今、監督を務めさせていただいているチームのすべての子たちにも伝えていけたらなと思います。それが今は亡き先輩や同級生、後輩たちへの恩返しなのかなと思います。

【18歳~28歳】
1999年3月、僕は鳴滝養護学校(宇多野病院)を卒業(退院)し、実家に帰りました。転校当時と家は変わりましたが、また再び家族と暮らせる喜びを感じました。

そして、4月から社会人として、実家と同じ区にある京都市Y障害者授産所に勤めることになりました。これを期に電動車椅子に乗り始めました。

世間では、「電動車椅子なんて可哀想…」と言われる方がいらっしゃいます。僕も実際、こそこそと言われたことがあります。

でも、良く考えてみて下さい。当時、僕は普通車椅子も使えましたが、それで屋外に行けるかと言われれば、そこまでの腕力はなく無理でした。でも、電動車椅子に乗ることで、自由自在どこにでも行けるようになったのです。

と言うことは、機能は落ちても、それを補うものがあれば、僕たちの活動範囲は格段に上がるということなのです。

この頃も良く遊びました笑。毎週末、京都の繁華街である四条河原町や、カラオケ、ライブハウスに通い、音楽活動も精力的に行いました。

残念ながら、高校時代のバンドは99年のコンサートを最後に解散しましたが、僕はその後もバンドやソロで数年間、活動しました。

Y授産では主にパソコンを使った軽印刷のレイアウト作業をしていました。学生時代、遊んでしかこなかったせいで、最初はお仕事をするということが苦痛でした。一回りも二回りも歳上の皆さんとのお仕事にやりがいを感じず、ふざけて職員さんに注意されたり、入所半年までは慣れない日々にいつ辞めようかばかり考えていました。

しかし、それを変えてくれたのは、やはりスポーツでした。このY授産所も当時、卓球バレー大会に年2回出場していて、入所すぐに主将という大役を与えられました。まだ18歳という右も左もわからない状態でしたが、得意な卓球バレーを通して、他の通所者の皆さんと打ち解けることができ、入所半年後の施設対抗の大会で格上チームを次々と破り、Y授産は史上初の優勝を果たしました。決勝戦終了後は、通所者、職員全員で喜び合い、開所当時から通所されていた皆さんは泣いていました。その頃から歳の近い同僚や、趣味の合う同僚とも遊びに行くようになり、お仕事も順調にできるようになっていきました。

今から考えると、当時、通所されていた鳴滝養護の先輩に、良くお仕事に関する悩みを相談していたので、早く環境に慣れるように、僕の得意なことで主将に推薦して下さったのかなァと思います。

それから3年ほど経ち、お仕事も順調にこなせるようになってきた頃、家庭では順調だった生活に揺らぎが見え始めました。それは、僕の介護の中心を担っていた母が体調を崩し、入院してしまったのです。しばらくは同居していた姉夫婦や叔母、祖母にも手伝ってもらい、何とか生活を続けていましたが、姉夫婦や叔母は日中働いていたので、徐々に疲労の色が見え始め、僕は皆が疲弊していく姿を見て、母の偉大さ、ありがたさを生まれて初めて感じました。

僕はそれまで、身内に介護してもらうことは当り前だと思っていましたが、母が倒れたことで、感謝もせず、母に毎日汚い言葉を浴びせていた自分を責め、反省しました。それはやがて、身内が身内の介護をすることへの違和感に変わり、家族から離れて自立生活をする決意をしました。

その日から新たな生活に向けて動き出しました。何からやっていけばいいのか全く見当も付きませんでしたが、ここで新たな出会いがありました。その頃、ちょうど地元に障害者生活支援センターが開設されたのです。しかも、通所先のY授産所と同じ法人が運営しているということで、すぐに相談することにしました。

当時、担当して下さった相談員さんは、僕が初めてのケースだったらしく、とても親身に情熱を持って対応して下さいました。肝心したのは、まずは自立生活ではなく、家族の負担を軽減するため、実家で利用するヘルパーさんの調整や身障会館での入浴利用の取り次ぎ、全介助で自立生活をされている方のお宅を見学させていただく機会を設けて下さったりと、各々のニーズと問題を多角的に考え、支援していく。本当の支援とはどういうものか身をもって教えられました。

その後、その担当の方は異動されましたが、引き続き、支援センターのお力をお借りし、自立生活に向け1年掛けて準備をしました。そして、ある程度の見通しが立ったとき、初めて家族に家を出たいという思いを伝えました。姉はとても心配してくれました。たぶん僕が同じ立場でも心配だと反対していたと思います。それでも、最後は家族みんなが僕の意志を尊重し、許してくれました。

とは言え、大きな問題がありました。家賃や必要経費、バリアフリーなどを考えると、一般のマンションはとても手が出る代物ではなく、実家から比較的近い市営団地の車椅子住宅に応募することにしました。しかし、市営団地の車椅子住宅は人気が高く、10回応募しても当選しない方もいらっしゃるらしく、この回は経験という軽い気持ちで応募することにしました。

すると、な、な、何と!一発で当選しました。それまで、クジ関係には全くと言っていいほど縁がなく、ビンゴなんていつも最後まで残るタイプだったのに、この瞬間はすべての運を手にしたようで少し怖かったです笑

そして、市の決まりで、当選から1ヶ月後には新しい生活が始まりました。ヘルパーさんの時間があるので、起床や食事、入浴、就寝は毎日決まった時間ですが、それ以外のすべての時間は自分の思い通りに使え、家族に気を使うことも、注意されることもないので、TVゲーム三昧でとても快適でした笑。でも、今思えばもっと時間を大事に有効に使えたら良かったf(^^; ただ、一番良かったのは、車椅子住宅なので、休日は簡単に外出が出来たことです。この頃は遊びはもちろん、養護学校のOB会や、自立生活についての講演活動、音楽活動を精力的に行いました。

このように順調に生活をしていましたが、自立生活を始めてから2年後の25歳の冬、初めて肺炎を患いました。この後、何度も肺炎に掛かり、睡眠時に呼吸器(鼻マスク)を使用することになりました。

人間は肺に取り込んだ空気を二酸化炭素に変えて体外に排出するわけですが、それが充分に行われないと、脳に二酸化炭素が蓄積され、意識障害を引き起こしたり、肺に菌やウイルスが侵入しても、外に排出できず、簡単に感染したりしてしまいます。そこで、呼吸器を使用し、しっかり空気を取り込み、排出することで、これらの不具合を解消することができます。また、誤嚥したときも出しやすくなります。

僕は後者の菌やウイルスの排出がしっかりできなかったり、誤嚥を繰り返すことで、何度も肺炎に掛かっていたのです。起きているときは意識的に呼吸を頑張るのですが、睡眠時は呼吸が浅くなり、排出が上手くできていなかったようです。

呼吸器(鼻マスク)を初めて使用する際、マスクの不快感や戸惑い、恐怖心で、なかなか慣れない場合があるそうですが、僕の場合、呼吸困難で気管切開ぎりぎりの状況になるくらいの重い肺炎だったので、抵抗感もなく、すんなり装着することができました。その点では良いタイミングだったのかなと思います。

呼吸器使用は、見た目にはとても重症に見えるかもしれませんが、電動車椅子と同じで、睡眠時に呼吸器でちょっとだけ呼吸を補ってあげることで、その後の数年間、風邪すら引かなくなったのです。

この時点で、気が付けば筋ジスであると診断を受けてから20年。電動車椅子にはなりましたが、比較的元気に28歳を迎えられました。

【28歳~36歳(現在)】
28歳になる年、僕の人生を変える大きな出会いがありました。それが現在、監督を務めさせていただいている、SONIC~京都電動蹴球団、電動車椅子サッカーとの出会いです。

あれは2008年の夏頃だったと思います。この頃は音楽活動も辞め、ただ仕事→TVゲームを繰り返すだけの毎日で、休みの日はたまにサッカーを観戦しに行くくらいになっていました。

そんなある日、職場の同僚が「棄てようと思ったんやけど」とクシャクシャになった紙らしきものを僕に手渡してくれました。それがSONICのパンフレットだったのです。

電動車椅子サッカーは一度、ニュースで観たことがあり、興味はあったのですが、まさか京都にチームがあるとは思ってもいなかったので、俄然、興味が湧きました。しかも、良く読んで見ると、何と監督は僕と同じ筋ジスで、よくよく知っている養護学校の先輩でだったので、一気にSONICに親近感を持ちました。

それからしばらくして、チームの代表者にコンタクトを取り、当時、関西で行われていたリーグ戦を京都市障害者スポーツセンターに観に行きました。

今思い返すと、みんなバラバラでチームとして機能してるとは言えない試合でしたが、自分と一回り以上も歳下の筋ジストロフィーや障害のある選手が、コートを自由に動き回りサッカーに興じる姿を目の当たりにして、これまで感じたことがない衝撃と感動、そして、僕にも大好きなサッカーができるんだという喜びは今でも忘れません。

もし、あのときSONICのパンフレットをもらっていなければ、ただ、時間だけを浪費する生活を続けていたと思います。同僚にサッカー好きを公言していて良かったー笑

そして、翌年の1月。SONICで電動車椅子サッカー選手になりました。僕は最初、ボールを触っているだけで幸せで、厳しい指導にも「あ~サッカーやってる~」という満足感に包まれていました。しかし、初めて出場した6月の全国大会関西予選で、チームは予選突破したものの、僕自身はトータル5分しか出場できなかったことで、学生時代、卓球バレーで一番だった頃の闘争心が呼び覚まされました。

それからは電動車椅子を競技用に変え、遠征にも積極的に参加して、ポジションにはこだわらず何とか出場機会を作りました。トレーニングだけでは公式戦に出場できないと思ったからです。

この頃になると、夜間だけ使用していた人工呼吸器を食後の安静時も使用するようになりました。普段、意識して呼吸をしていても、食事中は食べる行為と体のバランスを保持することを同時にやろうとするため、自然に呼吸が浅くなり、二酸化炭素の排出量が少なくなって頭痛を引き起こしていたと考えられます。それはすなわち肺機能の低下を意味していました。

10月になり、公式戦出場がないまま金沢市で開催された全国大会を迎えました。僕は今回の出場はないと考え、ベンチで自分のできることをしっかり果たそうと思っていました。すると、0―4で折り返した後半開始にチャンスが訪れました。ゴールキーパー(GK)として交代出場が命じられたのです。初めはバタバタしてしまい、すぐに失点しましたが、その後は必死にボールに喰らいつき、終わってみれば、前年優勝チームに後半だけ見れば1―1。その翌日の交流試合で今度はGKとして先発出場しました。この試合では冷静にプレーすることでき、1―0の完封勝利を収めることができました。

この日からチームの正GKとして起用されるようになり、翌年からはゲームキャプテンという大役に指名されました。そこから引退するまでの7年間で全国に2回出場し、目標にしていた関西選抜候補にも1度、選出されました。

僕の現役時代については、ブログ「音速魂~Soul of Sonic~」をご覧下さい。現役7年間の軌跡が、その時々のリアルな視点で書かれています笑
http://ameblo.jp/soulofsonic/

僕は2016年1月に引退しました。この頃になると、日中、常に人工呼吸器を装着して生活していたので、最後の2年間は競技用の電動車椅子に人工呼吸器を取り付けてプレーしました。

引退を決意したのは3度の心不全を起こしたからです。本当は引退はしたくありませんでした。まだまだ選手としてやり残したことがたくさんあったからです。でも、自分一人で選手をやってこれたわけではありませんし、ドクターや自分を心配してくれる人がいる以上、このまま続けるとは言えませんでした。

この競技は数多くの方々のサポートによって成り立っています。練習するにしても、誰かの手を借りなくては何もできませんが、いざ試合になると、これが重度障害者なのかと思うくらいのプレーをします。もし、興味がある方がいらっしゃったら、多くの都道府県に電動車椅子サッカーチームがありますので、是非、コンタクトを取っていただけたらと思います。

詳しくはSONICのHP、もしくはJPFA日本電動車椅子サッカー協会HPをご覧下さい。
http://sonic-kyoto.org/
www.web-jpfa.jp

僕は引退後すぐにSONICの4代目監督になりました。僕が入団した当時の亡き初代監督の意志を引き継ぎ、SONICを選手主体の全国に通用するチームにする決意だったのですが、ここで思いもよらない病魔に襲われ、4ヶ月入院することになります。それはうつ病と不安症です。

3度の心不全が引き金になり、「死」という言葉を身近に感じたとき、一気にこれまで感じたことがない恐怖が襲いました。毎日、不安で涙が止まらず、原因不明の心拍数の急落もあったため、宇多野病院に緊急入院しました。入院してしばらくして、緊急地震速報をきっかけに記憶がなくなるほどのパニックを引き起こしました。そのときはさすがにドクターも元の生活は難しいと思ったそうです。今でもその2日間の記憶はありません。

それでも、ドクターやスタッフの献身的なケアのお陰で、寝たきりにはなってしまいましたが、また家に帰ることができました。退院後もたまに不安症の症状が出ることもありましたが、自分の力を信じ、精神科クリニックでの心理カウンセリング、向精神薬の力を借りて、今はうつ病や不安症の症状も出ずに過ごせています。

退院後、仕事を辞め、デイサービスも退所しました。監督としても正直言って、何もできていない状態ですが、訪問リハビリを受け、退院から一年という時間を掛けて、今は寝たきりから週1、2度の外出までできるようになってきました。

筋ジストロフィーは毎年毎年できないことが増えていきます。でも、僕にとってこの病気は闘うべき相手ではなく、共に生きてきた友のような存在です。36年間生きてきて、今、確かに言えることは、『この36年間、決して不幸ではなかったし、これからも幸せだと言うことです』。

何故、そう言い切れるのかというと、この病気にならなければ出会えなかった人がたくさんいて、経験できないことがたくさんあったからです。これは諦めで言っているわけではなく、一度きりの人生を謳歌しないほど、もったいないことはないと思うからです。

人生は一度きり。ゆっくりでもいい。今このとき、この瞬間を大切にして、これからも、自分らしく歩んでいきたいと思います。

ご精読ありがとうございました。皆さんとの出会いに感謝です(*^^*)