前回の続きです。
【すべての魂は死後に安らぎを見出す。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを
見出すとは限らない】
この話はまだまだ終わらない。
死に関するもっとも深い謎がもうすぐ明かされる。
今までの対話はほんのさわりにすぎないのだからね。
そこで、あなたのさっきの質問をもっとくわしく考えてみよう。
あなたは「わが家」へのいちばん短い道が最善の道なのか
と聞いたね。必ずしもそうではない。それが答えだ。
どんなに長くても、あなたにとっていちばん役立つ道が
あなたを「完了」に導く。
「絶対的な気づき」の瞬間---これはほんとうの自分を完全に
知って、体験し、感じる瞬間だが---に達するには、順番に
段階を踏まなければならない。
ひとつの生涯がひとつの段階だと考えていい。
どんな魂もひとつの生涯で「絶対的な気づき」に到達すること
はない。幾多の生涯を通じてたくさんの段階を積み重ね、
その結果「完璧な完了」「絶対的な気づき」が生まれるのだよ。
どの段階も、その段階固有の課題あるいは使命が完了した時に
終了する。この生涯は、あなたが今回個の物理的な世界で
経験しようとしたことが完了すると終わる。
そしてあなたが今回完了したことを、「時間」のなかのこれまでの
旅で完了したことに積み重ね、やがてその積み重ねがすべて
合わさったとき、「絶対的な気づき」が実現する。
二ール/
すると「完了」には、二つのレベルがあるんですね。
第一のレベルはプロセスのなかのひとつの段階の完了で、
第二のレベルはプロセスそのものの完了なんだ。
そう。そしてほんとうのあなたを十分に知り、充分に体験し、
充分に感じたとき、プロセス全体が完了する。
二ール/
すばらしい説明です。「納得」がいきましたよ。
魂には、この地上で達成すべき課題と体験があるんですね。
達成するのに長い時間がかかる魂もあるでしょう。
でも課題が完了したときこそ歓喜のときですよね。
この世での仕事が成し遂げられるのだから。
よくわかったじゃないか。立派だ ! まことに立派だよ !
二ール/
そして、必ずしも「短い」ほど「良い」わけではない。
目的は完了することであって、早さではないから。
すごいや。なんだかほっとしました。
だって、わたしはまだ、この世での仕事を完了したとは思え
ないですからね。・・・・・もう60代に入っているというのに。
その仕事とは何かな?
二ール/
確信がもてないんですよ。
何だか分からない仕事を完了するのは、むずかしいだろう。
二ール/
わかっています。それもわたしのかかえる問題の一部なんです。
それについて話し合ってみようか?
二ール/
ぜひともそうお願いしたいところですが、いま横道に入るのは
どうかな? それが必ずしも「良い道」ではないかもしれないけれど、
「わが家」に戻るのにあまり険しくない道がある、
とおっしゃいましたよね。いまはそのことをもっと聞きたいです。
障害が少ない道のほうが楽だよね。
二ール/
そりゃそうです。で、そういう道はどうやって見つけるのですか?
見つけるのではない。創るのだよ。
二ール/
どうやって?
いま、実行しているではないか。
その道を歩こうと決意しただけでも、ものごとは楽になる。
多くの人たちは「その道を歩く」ことなどまったく念頭になく、
人生を生きている。学ばない。祈りもしない。瞑想もしない。
内面的な人生にぜんぜん関心を払わないし、もっと大きな
現実について真剣に探ろうとも思わない。
だが、あなたはそうではない。いまのように探究している
---この対話をしている---という事実によって、あなたは
障害の少ない道を創り出している。
わたしが言っているのは、曲がりくねった道を歩こうと、
まっすぐな道を歩こうと、森を通ろうと迂回しようと、
生命と生きること、死と死にゆくことに関するあなたの
真実に到達すれば、障害をすべて取り払い、険しくない
「完了への道」を創り出せるということだ。
死について充分に知ったら、人生を充分に生きることができる。
そうすれば「自分」を充分に体験できるし---それが地上に
生まれた目的だ---そうなれば自分は完了したとはっきり知って、
感謝して穏やかな死を迎えることができる。
これこそ険しくない道だし、とても安らかな死を生みだす。
二ール/
いまのお言葉は、わたしへの批判のような気がします。
というか、命令に聞こえるな。
「良い死を迎えられないなら、あなたのやり方が正しくないのだ」
って、そんなふうに聞こえますよ。
わたしは批判などしていないのに、あなたが勝手に批判だと
思っているのだよ。「悪い」死などというものはないし、
目的地に---これは「神性」および「真の自分の核心」との喜びに
満ちた再会だ---行き着かないこともありえないのだよ。
ここで話しているのは、あなたの人生/生命と死をどうやって
険しくない安らかなものにするか、ということだ。
さっきの言葉は批判ではなく、観察した事実の指摘だ。
あなたが体に宿って経験しようとしたことが容易に完了するなら、
そして感謝して穏やかな死を迎えるなら、
あなたは死の後ではなく、死の前に安らぎを見いだす。
すべての魂は死後に安らぎを見いだす。ただし、すべての
魂が、死の前に安らぎを見いだすとは限らない。
あなたが死ぬとき、完了していないなんてありえないが、
それに意識的に気づいていないことはありえる。
「安らぎ」とは、自分が完了したと意識的に気づいている
ことだ。もう自分がなすべきことはないと気づくことだ。
もうなし終えたと気づくことだ。
すなわち、終了だ。 そして「わが家」に戻れる。
びくびくと不安におののいてふるえながら死を迎えても、
あきらめたくない、まだ終わっていない、これから自分の
生命に何が起こるか、自分がどうなるのか怖いと思って
いても、やはり目的地に行きつく。
そこに行き着かないことなどありえない。
【すべての魂は死後に安らぎを見出す。
ただし、すべての魂が死の前に安らぎを
見出すとは限らない】
この話はまだまだ終わらない。
死に関するもっとも深い謎がもうすぐ明かされる。
今までの対話はほんのさわりにすぎないのだからね。
そこで、あなたのさっきの質問をもっとくわしく考えてみよう。
あなたは「わが家」へのいちばん短い道が最善の道なのか
と聞いたね。必ずしもそうではない。それが答えだ。
どんなに長くても、あなたにとっていちばん役立つ道が
あなたを「完了」に導く。
「絶対的な気づき」の瞬間---これはほんとうの自分を完全に
知って、体験し、感じる瞬間だが---に達するには、順番に
段階を踏まなければならない。
ひとつの生涯がひとつの段階だと考えていい。
どんな魂もひとつの生涯で「絶対的な気づき」に到達すること
はない。幾多の生涯を通じてたくさんの段階を積み重ね、
その結果「完璧な完了」「絶対的な気づき」が生まれるのだよ。
どの段階も、その段階固有の課題あるいは使命が完了した時に
終了する。この生涯は、あなたが今回個の物理的な世界で
経験しようとしたことが完了すると終わる。
そしてあなたが今回完了したことを、「時間」のなかのこれまでの
旅で完了したことに積み重ね、やがてその積み重ねがすべて
合わさったとき、「絶対的な気づき」が実現する。
二ール/
すると「完了」には、二つのレベルがあるんですね。
第一のレベルはプロセスのなかのひとつの段階の完了で、
第二のレベルはプロセスそのものの完了なんだ。
そう。そしてほんとうのあなたを十分に知り、充分に体験し、
充分に感じたとき、プロセス全体が完了する。
二ール/
すばらしい説明です。「納得」がいきましたよ。
魂には、この地上で達成すべき課題と体験があるんですね。
達成するのに長い時間がかかる魂もあるでしょう。
でも課題が完了したときこそ歓喜のときですよね。
この世での仕事が成し遂げられるのだから。
よくわかったじゃないか。立派だ ! まことに立派だよ !
二ール/
そして、必ずしも「短い」ほど「良い」わけではない。
目的は完了することであって、早さではないから。
すごいや。なんだかほっとしました。
だって、わたしはまだ、この世での仕事を完了したとは思え
ないですからね。・・・・・もう60代に入っているというのに。
その仕事とは何かな?
二ール/
確信がもてないんですよ。
何だか分からない仕事を完了するのは、むずかしいだろう。
二ール/
わかっています。それもわたしのかかえる問題の一部なんです。
それについて話し合ってみようか?
二ール/
ぜひともそうお願いしたいところですが、いま横道に入るのは
どうかな? それが必ずしも「良い道」ではないかもしれないけれど、
「わが家」に戻るのにあまり険しくない道がある、
とおっしゃいましたよね。いまはそのことをもっと聞きたいです。
障害が少ない道のほうが楽だよね。
二ール/
そりゃそうです。で、そういう道はどうやって見つけるのですか?
見つけるのではない。創るのだよ。
二ール/
どうやって?
いま、実行しているではないか。
その道を歩こうと決意しただけでも、ものごとは楽になる。
多くの人たちは「その道を歩く」ことなどまったく念頭になく、
人生を生きている。学ばない。祈りもしない。瞑想もしない。
内面的な人生にぜんぜん関心を払わないし、もっと大きな
現実について真剣に探ろうとも思わない。
だが、あなたはそうではない。いまのように探究している
---この対話をしている---という事実によって、あなたは
障害の少ない道を創り出している。
わたしが言っているのは、曲がりくねった道を歩こうと、
まっすぐな道を歩こうと、森を通ろうと迂回しようと、
生命と生きること、死と死にゆくことに関するあなたの
真実に到達すれば、障害をすべて取り払い、険しくない
「完了への道」を創り出せるということだ。
死について充分に知ったら、人生を充分に生きることができる。
そうすれば「自分」を充分に体験できるし---それが地上に
生まれた目的だ---そうなれば自分は完了したとはっきり知って、
感謝して穏やかな死を迎えることができる。
これこそ険しくない道だし、とても安らかな死を生みだす。
二ール/
いまのお言葉は、わたしへの批判のような気がします。
というか、命令に聞こえるな。
「良い死を迎えられないなら、あなたのやり方が正しくないのだ」
って、そんなふうに聞こえますよ。
わたしは批判などしていないのに、あなたが勝手に批判だと
思っているのだよ。「悪い」死などというものはないし、
目的地に---これは「神性」および「真の自分の核心」との喜びに
満ちた再会だ---行き着かないこともありえないのだよ。
ここで話しているのは、あなたの人生/生命と死をどうやって
険しくない安らかなものにするか、ということだ。
さっきの言葉は批判ではなく、観察した事実の指摘だ。
あなたが体に宿って経験しようとしたことが容易に完了するなら、
そして感謝して穏やかな死を迎えるなら、
あなたは死の後ではなく、死の前に安らぎを見いだす。
すべての魂は死後に安らぎを見いだす。ただし、すべての
魂が、死の前に安らぎを見いだすとは限らない。
あなたが死ぬとき、完了していないなんてありえないが、
それに意識的に気づいていないことはありえる。
「安らぎ」とは、自分が完了したと意識的に気づいている
ことだ。もう自分がなすべきことはないと気づくことだ。
もうなし終えたと気づくことだ。
すなわち、終了だ。 そして「わが家」に戻れる。
びくびくと不安におののいてふるえながら死を迎えても、
あきらめたくない、まだ終わっていない、これから自分の
生命に何が起こるか、自分がどうなるのか怖いと思って
いても、やはり目的地に行きつく。
そこに行き着かないことなどありえない。