前回の続きです!


【あなたは自分の意思に反して死ぬことはない】

ニール/
それがほんとうだったら、どんなにほっとするかしれないな。
すごく癒されるでしょうね。
でも、自分の経験からしても、起こって欲しくないことが
たくさん起こっているのに、どうしてそれが真実だなんて
思えますか?


あなたが起こってほしくないことは、何も起こりはしない。

ニール/
まったく何も、ですか?


何も。
自分が起こってほしくないことが起こっていると「想像すること」は
可能だよ。だが、実際はそうではない。
そんなふうに想像すれば自分を犠牲者だと思える、
それだけのことだ。
しかし、そんな考えほど、あなたの進化を遅らせるものはない。
犠牲者だと思うのは、視野が限られている証拠だ。
真の犠牲などはありえないのだから。

ニール/
でも、娘をレイプされた人や「民族浄化」という蛮行によって
村を滅ぼされた人たちに、犠牲などありえない、なんて
言えませんよ。


苦しみのさなかにいる人たちにそういう言い方をしても、
なんの意味もないだろうね。
そういう時には、ただ深い同情と心からの気遣いと
優しい愛情をもって寄り添っているだけでいい。

霊的な決まり文句や知的探究心を、そのひとたちの
苦しみを癒す薬として差し出してはいけない。
まず、痛みを癒し、それからその痛みを創り出した
思考を癒すことだ。


もちろん、普通の人間的な感覚からいえば、恐ろしい出来事や
環境の「犠牲者」は確かに存在するよ。
だがそのような犠牲者という経験が現実として存在するのは
ふつうの---したがってきわめて限られた---人間的な文脈の
なかだけなのだ。

真の犠牲などありえないと言う場合、認識のレベルが全く違う。
しかし、いったん痛みが癒されれば、ひとはそのレベルの認識に
到達することができる。

ニール/
感情的な痛みを抱えているとはかかわりなく、たいていの
ひとは、今の言葉をなかなか受け入れられないと思いますね。


わたしがここで言っていることは、世界の伝統的な宗教の
ほとんどが長年にわたって言ってきた事と別に違いはしない。
「主のなさり方は謎だ」と言うじゃないか。
「神には完璧な計画がおありだと信じなさい」とね。

この完璧な計画という考え方については、対話の後の方で
取り上げよう。そして、たくさんの魂が交流し、作用し合って、
具体的かつ完璧な理由のもとに、具体的かつ完璧なやり方で
この地上の暮らしにおける個々および集団的な結果を
生み出していることも見ていこう。


【「わが家」へ帰る道のなかで、ほかの道より
とくに良い道はない】


人びとが戻りたがっている「わが家」とは一体なんなのだろう?
たいていの人は、「わが家に戻る」とは、神のもとへ戻る
ことだと考えている。
だが、神のもとに「戻る」ということはありえない。
あなたは一度も神のもとから離れていないのだから
---そしてあなたの魂はそれを知っているよ。
「あなた」は意識のレベルでそれに気づいていないかも
しれないが、魂は知っている。

ニール/
でも、自分は一度も神から離れていないのだから神のもとに戻る
必要はないと、私の魂が知っているのなら、魂は何をしようとして
いるんですか? 魂の視点からみたこの地上での人生/生命の
目的は何ですか?


簡単に答えてあげよう。
あなたの魂は、知っていることを体験しようとしている
のだよ。あなたの魂は一度も神から離れなかったこと
を知っているが、それを体験したがっている。
人生/生命とは、魂が「知っていること」を「体験」に
変えるプロセスだ。そしてあなたが知って体験すること
を現実として感じられるようになれば、プロセスは完了
する。

言ってみれば、「わが家」とは「完了」の場なのだよ。
真の自分を知ることが完了し、体験が完了し、感じる
ことが完了し、それによって真の自分についての
「気づき」が完了する。それが「わが家」だ。

そこで「あなた」と「神性」との分離が終了する。
この分離は幻想だし、あなたの魂はそれを知っている。
だから「完了」とは、分離が終了し、あなたが「神性」と
再びひとつになる瞬間のことだ、と言ってもいい。


ニール/
でも、本当の意味で、再びひとつになるわけじゃないてじょう。
ひとつでなかったことなどないんだから。
ただそのことを忘れていると、再びひとつになったように思うんですね。


そのとおり。
そして、再びひとつになる瞬間に何が起こるかというと、
あなたはただ「真の自分」を思い出し、それを体験する。

そして、その認識に立ち戻る要素は二つある。
「知ること」と「体験すること」によって、認識が得られ、
それが「感じる」ことにつながる。「気づき」とは、自分が
知って体験したことを感じることなのだよ。
何かを知ることと体験することとは全く違うし、
それを感じることもまた、まったくべつものだ。

「感じる」ことだけが、十全の「気づき」を生む。
「知る」だけでは部分的にしか気づけない。
「体験」だけでもやはり部分的にしか気づけない。
あなたは自分が「神性」であると知っているかもしれないが、
「神性である自分」を体験し、その「感情」を生きることを
通じて、はじめて気づきが「完了」する。

ニール/
わたしはしょっちゅう、「今日は自分が自分でない気がする」と言ってきましたが、ようやくその意味がわかりましたよ。


「自分が自分でない気がする」のは、ほんとうの自分を
知らないからではなくて、ほんとうの自分を体験していない
からだ。感じるためには知識だけではなく、体験が必要なん
だよ。感情は魂の言葉だ。
自分自身についての気づきは、ほんとうの自分を十全に
感じることを通じて達成される。

気づきのプロセスには二つの要素があるから、そこに到達
する道も二つある。
魂は霊的な世界の道を通って完全な知に到達し、
物理的な世界を通って完全な体験に到達する。
どちらの道も必要で、世界も二つある。
この二つが合わさって十全な感情が創造され、その感情が
十全な認識を生み出すための、完璧な環境ができる。
「わが家」とは「完了」の場なのだよ。






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