今日は。いつもありがとうございます。

 

長く私が敬いとともに読ませていただいている

加藤敏明さまの記事です。

 

出来る可能性があったとしても、

自ら実行し追求して行く人は稀。との言葉に

はっとさせられます。

 

 

 

私は自分を使って、社会と関わっていく形は何かなとずっと考えてきました。

 

何であれ、オリジナルであることに昔から価値を重く置くところがありました。

 

オリジナルを別の人が違う形に昇華させられる場合は又別ですが、安直さが見えるとつまらなくてたまりませんでした。

 

 

(誰もかれもが同じことをしようとする。流行りに乗って一見魅力的なことに自分も夢中になる。それをしていることが格好良いと酔う、ブームに乗れていると思う、知った気になる、又はそれに没頭していて安心する)

 

(私がこういう人ではないという保証があって言っているものではありません)

 

 

ステージに立つ人、発信する曲、演っていること、メッセージ性、スター性、その方のカラーなどを感じ取ったり、この方(或いはグループ)の演っていることは何だろう?どんなものだろう?と考えるのが趣味でした。

 

自分も含めてオリジナリティを持てているかどうかを学ぶ機会にも恵まれました。

 

完成されていてもかっこいいかどうかは別。

 

整っていても魅力的かどうかは別。

 

成功していても、賑わっていてもまやかしでないとは言い切れない。

 

そんな経験からモノマネそのものと、モノマネ大好き的なものに関わらない様に気をつけています。

 

気をつけるというか、自動的にそうなります。

時間は限りがあるので美味しいものを食べたいと思います。

 

 

 

 

余談ですが、ずっとずっと何年も過去にこの様なことがありました。

 

あることに何人かの方が私を誘ってくれたのですが私は行きませんでした。あまり断ると付き合いが悪く可愛げがないと思われるかもしれないとは思いました。

 

でも、私が行かない理由ははっきりしていました。行った先で何をやろうと構わないのですがひとことで内容がカッコ悪かったからです。

 

抽象的な言い回しですが自分の感覚的にカッコ悪いことだったからです。

 

 

私は人のことは格好悪いとは思いません。私は自分こそ新しいものに敏感でファッション性豊かであったり頭の中も洗練されている人間ではありません。

 

私がイケてるから何かを格好悪いと思ったのではなく、その内容に心を踊らされなかったということです。

 

別の言い方をすると同じようなものでも内容がカッコイイものに作りあげられていたとしたら、遊びにでかけたかもしれません。

 

 

 

 

 

この続きを書いていて恐ろしく長い文章になったので今日はここで終わります。

 

 

人のまわしで相撲を取るということばがありますが、それがまかり通るのも事実です。

 

それが綺麗か面白いか価値が100年伝播出来るものなのか考えてみたらわかりそうなもの。

 

今回のこのリヴログでのお話に出てくる女性ですが、おこがましいですが掃除についてひとつの方法論を確立した方と思え、とても惹かれます。

 

きっとこの方とお話をさせて頂いたらとても面白いだろうと想像できます。

 

それはこの方が日常仕事に従事する中でオリジナリティが知らずに練られて自らの経験を武器にトップに上り詰めた方だからです。

 

ニュートラルというテーマからは離れますが私が加藤さまの記事から今回プラスαとして感じたことでした。

 

ニュートラルでアンテナを張っていれば必要な情報を見逃さない。(インナーサウンズ用の作曲などはお客様と自分が繋がって内部から来る気づきの扉が開きやすくなるのかな)

 

このような姿勢で私もセラピーやインナーサウンズ、コンサートの骨子を作る人でありたいと思う朝です。

 

皆様、カッコイイものを食べてカッコイイものを出していきましょう。ご自分の判断において格好いいと思えるものを選ぶようにすると意識するところから始まると私は思っています。

 

一番ダサい私もぼちぼち頑張ります。