カストロが率いて成功させた

キューバ革命によって米好戦派が計画した

対ソ先制核攻撃計画は困難に

 

2016.11.27 03:20:03 櫻井ジャーナル

http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611270000/

  

 

11月25日にキューバの

フィデル・カストロが死亡したという。

 

言うまでもなく、

カストロはキューバ革命の英雄。

 

アメリカ支配層の傀儡だった

フルヘンシオ・バチスタ政権を倒すため、

 

1953年7月26日に実行された

モンカダ兵営襲撃から革命は始まり、

 

59年1月1日にバチスタがキューバを逃げ出し、

8日にカストロがハバナ入りして終わった。

 

アメリカでは1953年1月から61年1月まで

ドワイト・アイゼンハワーが大統領を務めている。  

 

この当時、アメリカ支配層の好戦派は

ソ連に対する先制攻撃を考えていた。

 

この計画とキューバ情勢は深く結びついている。  

 

第2次世界大戦で殺されたソ連人は

2000万人以上、

 

工業地帯の3分の2を含む

ソ連全土の3分の1が破壊されている。

 

しかもソ連軍で装備が十分な部隊は3分の1にすぎず、

残りの3分の1は部分的な装備しか持たず、

残りは軍隊の体をなしていなかった。

 

これはアメリカ支配層の中でも

好戦派として知られている。

 

ポール・ニッツェの分析だ。

本ブログでは何度か指摘したように、

アメリカ軍はドイツ軍とまともに戦っていない。  

 

日本がポツダム宣言を受諾すると

通告してから約1カ月後には

 

JCS(統合参謀本部)でソ連に対する先制攻撃を

必要なら実行すると決められている。

 

この決定はピンチャーという暗号名で呼ばれた。

もっとも、この時点でアメリカが保有していた核兵器は

 

2発にすぎないと言われているので、

全面核戦争というわけではないだろう。  

 

1948年後半になると、

心理戦の専門家で特殊部隊の産みの親とされている

「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、

 

ソ連への核攻撃に続く

全面的なゲリラ戦計画を承認させ」

 

(クリストファー・シンプソン著、

松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、

 

翌年に出されたJCSの研究報告では、

ソ連の70都市へ133発の原爆

 

(Oliver Stone & Peter Kuznick,

“The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

を落とすという内容が盛り込まれていた。

 

1952年11月にアメリカは水爆実験に成功している。  

この当時、原爆の輸送手段は爆撃機。

 

その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)で、

1948年から57年まで司令官を務めたのが

カーティス・ルメイ中将だ。

 

日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、

広島や長崎に原爆を落とした責任者だ。  

 

1954年になるとSACは600から

750機の核爆弾をソ連に投下、

 

2時間で破壊し、118都市に住む住民の80%、

つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。

 

この年の終わりには

ヨーロッパへ核兵器を配備している。

 

1957年の初頭になると、

アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定した

「ドロップショット作戦」を作成、

 

300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、

工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。

 

(Oliver Stone & Peter Kuznick,

“The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

1958年にアメリカが保有する核兵器の数は3000発に近づいた。  

 

1960年の大統領選挙で

共和党の候補者だったリチャード・ニクソンは

アイゼンハワー政権の副大統領。

 

そこで、軍事的にアメリカが

圧倒していることを知っていた。

 

それに対して民主党のジョン・F・ケネディ上院議員は

1958年8月にソ連がミサイルで優位に立っていると主張、

 

「ミサイル・ギャップ」なる用語を使って危機感を煽り、

有権者の心をつかんだ。

 

こうした話をケネディに吹き込んだのは、

元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だと

されている。  

 

もっとも、ケネディが

好戦的だったと言うことは正しくない。

 

例えば、1954年4月には議会でフランスがベトナムで

行っている戦争を支持するアイゼンハワー大統領を批判、

 

また57年7月には、アルジェリアの独立を潰すために

戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対、

 

60年の大統領選挙では

アイゼンハワーとジョン・フォスター・ダレス国務長官の

好戦的な外交政策を批判している。

(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)  

 

結局、選挙でケネディが勝利した。

 

その段階で彼は

ジョン・フォスター・ダレスの弟でCIA長官だった

 

アレン・ダレスやFBIのJ・エドガー・フーバーを

解任するべきだと考えていたようだ。

 

ケネディの父親、ジョセフ・ケネディも

大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が

危険だということを話していたと言われている。  

 

しかし、選挙結果が

僅差での勝利だったことから

ケネディは両者を留任させ、

 

国務長官にはCFR(外交問題評議会)や

ロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあった

ディーン・ラスクを任命した。

(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)  

 

ケネディが大統領に就任した3カ月後、

1961年4月に亡命キューバ人の部隊が

キューバへの軍事侵攻を目論んで失敗する。

 

その背後にはCIAがいた。

 

ダレスCIA長官など好戦派はそうした作戦の失敗を想定、

アメリカ軍の本格的な軍事介入を予定していた可能性が

高いと考えられている。

 

実際、チャールズ・キャベルCIA副長官は

航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと

大統領に進言したが、却下されてしまう。

 

その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官や

リチャード・ビッセル計画局長とともに解任された。

(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)  

 

7月になると、ケネディ大統領に対して

ライマン・レムニッツァーJCS議長をはじめとする軍の幹部が

1963年後半にソ連を核攻撃するという計画を大統領に説明した。

 

大統領から1962年の後半ならどうなのかと

聞かれたレムニッツァーは使用できる十分なミサイルが

不足していると答えたという。  

 

レムニッツァーは大戦中の1944年から

アレン・ダレスと面識がある。

 

ふたりは秘密裏にナチスと接触し、

降服に関してスイスで話し合っているのだ。

 

その先にはナチスと手を組んで

ソ連と戦うという道筋ができていた。  

 

キューバに対する

アメリカ軍の侵攻を正当化するため、

レムニッツァーたちは偽旗作戦を考えている。

 

例えば、キューバのグアンタナモにある

アメリカ海軍の基地を

キューバ側のエージェントを装って攻撃、

 

マイアミを含むフロリダの都市や

ワシントンでの「テロ工作」も展開、

 

アメリカ人が操縦するミグ・タイプの

航空機で民間機を威嚇、船舶を攻撃、

 

アメリカ軍の無人機を破壊したり、

民間機のハイジャックを試みたり、

 

キューバ側を装ってその周辺国を

攻撃したりする計画もあった。  

 

それだけでなく、民間旅客機が

キューバ軍に撃墜されたように

装う計画もあった。

 

民間機のコピー機をフロリダ州にある

エグリン空軍基地で作り、

 

本物は自動操縦できるように改造、

空港から人を乗せたコピー機に離陸させ、

 

途中で自動操縦の飛行機と入れ替え、

それをキューバ近くで自爆させ、

 

キューバ軍に撃墜されたように

見せかけようとしていた。

 

そのほか、4ないし5機のF101戦闘機を

キューバに向かって発進させ、

 

そのうち1機が撃墜されたように

見せかける計画もあった。

(Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)

 

この偽旗作戦をレムニッツァーは

1962年3月にロバート・マクナマラ国防長官に

 

長官のオフィスで説明しているが、

拒否されている。

(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)  

 

アメリカの好戦派、

つまり疲弊したソ連を先制核攻撃で

殲滅しようと考えていた勢力が

 

キューバへの軍事侵攻に執着した理由は

中距離ミサイルいよる反撃を

恐れたからだと考えることができる。  

 

アメリカがソ連に対する先制核攻撃を

考えていることはソ連政府も知っていたはず。

 

長距離爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)で

対抗できなければ中距離ミサイルを使うしかない。

 

アメリカもソ連もそう考え、

両国はキューバに注目したのでは

ないだろうか。  

 

そして1962年8月、

アメリカはソ連がキューバへミサイルを

運び込んでいることに気づく。

 

偵察機のU2がキューバで

8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見、

9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認したのだ。

(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)

 

ハバナの埠頭に停泊していた

ソ連の貨物船オムスクが

中距離ミサイルを下ろし始め、

 

別の船ボルタワがSS4を

運び込んでいることも判明した。

(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)  

 

こうした事態を受け、

10月9日にケネディ大統領はJCSのメンバーと会談、

 

ルメイを中心とするグループは運び込まれた

ミサイルを空爆で破壊すべきだと主張した。

 

空爆してもソ連は

手も足も出せないはずだというのだが、

ケネディは同意していない。  

 

ケネディ大統領は10月22日、

キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、

海上封鎖を宣言した。

 

戦略空軍はDEFCON3

(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、

 

24日には一段階上のDEFCON2にする一方、

ソ連を空爆する準備をしている。

 

27日にはU2がキューバ上空で撃墜され、

ニューヨークにいたソ連の外交官たちは

機密文書の処分を始めたという。

 

27日にはシベリア上空でU2が

ソ連のミグ戦闘機に要撃されている。

 

この出来事を受け、

マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、

その後も別のU2が同じことを繰り返した。

(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)  

 

それだけでなく、アメリカ海軍の空母

「ランドルフ」はカリブ海で対潜爆雷を投下するが、

 

その近くにはキューバへ向かう輸送船を

警護していたソ連の潜水艦がいた。

 

その副長は参謀へ

連絡しようとするが失敗する。

 

アメリカとソ連の戦争が始まったと判断して

核魚雷の発射準備に同意するよう

 

ふたりの将校に求めるが、

政治将校が拒否して実行はされなかった。

 

この日、カーティス・ルメイ空軍参謀長など

JCSの強硬派は大統領に対し、

 

即日ソ連を攻撃するべきだと

詰め寄っていたという。

(Oliver Stone & Peter Kuznick,

“The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)  

 

結局、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相は

ミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて

核戦争は避けられたのだが、

 

ベトナム戦争の実態を内部告発した

ダニエル・エルズバーグによると、

 

キューバ危機が外交的に解決された後、

防総省の内部ではクーデター的な

雰囲気が広がっていたという。

(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)  

 

当時、マクナマラ長官は

キューバへ軍事侵攻した場合の

 

アメリカ側の戦死者数を

4500名になると推測していたが、

 

30年後、アメリカ人だけで10万人が

死んだだろうと訂正している。

(Oliver Stone & Peter Kuznick,

“The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)  

 

その翌年、1963年6月10日にケネディ大統領は

アメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる

演説を行った。

 

アメリカが軍事力で世界に押しつける

「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を

否定することから演説は始まり、

 

アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、

平和の可能性に対する、ソ連に対する、

 

冷戦の経過に対する

また米国内の自由と平和に対する、

 

自分自身の態度を検討しはじめるべき」

(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集

南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。

 

ケネディ大統領がテキサス州ダラスで

暗殺されたのはその年の11月22日。

 

当時のダラス市長はCIA副長官だった

チャールズ・キャベルの弟、アール・キャベルだ。  

 

ソ連に対する攻撃をアメリカの

好戦派だけが考えていたわけではない。

 

第2次世界大戦の終盤、

1945年4月12日にアメリカの

 

フランクリン・ルーズベルト大統領が急死、

5月7日にドイツが降伏するが、

 

その直後にウィンストン・チャーチル英首相は

JPS(合同作戦本部)に対し、

 

ソ連へ軍事侵攻するための作戦を

立案するように命令、

 

5月22日にアンシンカブル作戦が

提出されている。

 

7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が

「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

 

この作戦は発動しなかったのは、

参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。

(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)  

 

もし、カストロたちの革命が成功せず

キューバをアメリカが支配していたなら、

 

ソ連に対する先制核攻撃が

実行された可能性はかなり高くなるだろう。

 

そうした戦争が始まったなら、

沖縄をはじめ、日本は核兵器の発射基地になり、

報復の対象になったはずだ。