「独立」住民投票に向けて歩む沖縄

読者日記マスコミ同時代史
2015年12月22日号 田中良太



沖縄県知事が翁長雄志となったのが1年前、
2014年12月だった。

同時に沖縄県紙である沖縄タイムスと
琉球新報の紙面は、「反基地」
一色となった。

それまでもオピニオンとしては
同じだったのだろうが、


ニュースとしては主要な発信源である
県知事が仲井真弘多で、


政府の施策である普天間基地の
辺野古移転については「容認」
だった。

仲井真知事の発言として、
政府路線が紹介されるため、


紙面全体が
反基地一色にはならなかった。
 
この1年間、沖縄の「真相」は、
沖縄タイムス・
琉球新報の県紙2紙を読まなければ
分からないといった様相になっている。

もちろん全国紙にも、
辺野古移転をめぐる
政府対翁長県政の対立は報じられる。

しかしその報道は
政治・
行政のシステム=制度の次元に
とどまる傾向が強い。

制度に浮上しているとはいえない問題が、

朝日・毎日などの紙面を賑わすことは少ない。
 
例えば、翁長知事が上京しても、

安倍晋三首相も菅義偉官房長官も会わない。

とくに官房長官は「沖縄基地負担軽減担当」を兼ねており、

県知事が振興予算獲得を目的に上京した場合、

会って話を聞くのは、
職務上の義務と言えるだろう。


しかし菅も、翁長には会おうとしない。

仲井真知事時代は、

上京するたびに菅だけでなく、

首相の安倍も会い、
振興予算の増額に応じていた。


一転して振興予算も削るような
冷酷な対応を取っている。

「国の方針に従わない沖縄県はいじめ抜く」
という
政権の意思が見えてくる。
 
辺野古の現場では、
警視庁から応援に来ている機動隊が、

警備の前面に出てるという問題もある。

以前は沖縄県警の警官隊で、

ときに反対派の一員として行動していた県民と警官が
顔見知りという場面もあった。

その場合、「対立」
一色とはならない。

警官の方が「実力行使」を避けたり、
行動している県民の方が
アンタもこの行動に加われ」と呼びかけたり、
「同じ県民」を思わせる場面があった。


しかし警視庁から応援の機動隊が
警備の前面に立つことによって、

こうした場面は消えてしまった。
 
明治維新直後、
「琉球王国」を日本領とした琉球処分(1872~
79年)は、
最終的には本土から軍と警官隊を送り、武力によって完成した。


いま安倍政権の沖縄政策が
「第2の琉球処分だ」という主張を、

翁長知事も県紙2紙もともに強めている。

安倍政権が辺野古の地元地区に直接、

補助金めいたものを支給していることも
強い反発を買っている。

辺野古移転には
沖縄県も名護市もともに反対している。


国が補助金支出によって
「賛成」に転換させようとしても不可能に近い。

そのため県・
市を無視したルール違反なのだが、
全国紙には強い抗議が見られない。
 
こんな中で琉球新報紙が賞賛に値する大
企画記事を連載していた。


昨14年5月1日開始で、
今年2月15日まで100回にわたって連載した
「道標(
しるべ)求めて・琉米条約60年 主権を問う」だ。

「編集委員・新垣毅」という署名入りだが、

多くの記者を動員した集団の労作だったのだろう。

早稲田大学は
石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」を設けている。

15年10月の第5回では、

公共奉仕部門の大賞にこの連載を選んだ。

東京の出版社・
高文研から
単行本として出版されているから、
一読に値することをつけ加えておきたい。
 
1853年6月、浦賀に来航して
日本(江戸幕府)
に開国を迫ったペリーの米艦隊は
帰国途中沖縄を訪れ、琉球王国と修好条約を結んだ。


160年前のこの歴史をたどりながら、
それが現在の沖縄にとって「道標」
となっている
という意味は、タイトルだけでも明らかだ。
 
翁長県政の誕生以後、
沖縄では「自己決定権」
の言葉が
頻発されるようになった。

知事を先頭にした自治体首長、多くの県民団体、

そして県紙2紙がそろって自己決定権を主張している。

現在の安倍政権の沖縄政策については
第2の琉球処分」だという認識になる。

英国のスコットランドや、

スペインのカタロニア地方で高まった「独立論」と
同様、沖縄独立論も強まるのは必然といえる。


翁長知事や県紙2紙が
「独立論」を展開するのは時間の問題で、
早ければ来年の元旦ということも考えられる。
 
いずれにせよ全国紙を読んでいても
「燃える沖縄」
の現状は浮かび上がって来ない。

朝日・毎日・道新などは、沖縄県紙の報道・
論評を
読者に伝える工夫をしてほしいと考えるが、
実現しないだろうか?



+++++++++++++++++++++++++++++++++


自己決定権の在り方たどる


2014年9月30日付
http://www.pressnet.or.jp/publication/kisha/140930_4387.html



琉球「道標(しるべ)求めて 

琉米条約160年 主権を問う」


1854年3月、日米和親条約が締結された。
同年7月、琉球王国は米国と琉米修好条約に調印する。

条約締結160年を節目に、
沖縄が主権国家として外交 力を発揮していた歴史をたどり、

今日の沖縄の「主権」と
「自己決定権」の在り方を考える長期連載が、
5月から始まった。

条約締結前に起きたペリー部隊の水兵による
女性暴行事件からはじまる第1部は、
開国を迫る米国に対する幕府、薩摩、琉球の対応を追う。


米、英、仏、露、 蘭の船がたびたび来琉する中、
独立を守るため琉球は数々の知恵を絞った。
その一つが臨時官職の配置だ。

列強との交渉の際、その臨時官員が時間稼ぎをする間に
首脳は最善の対応策を見いだしていたという。

第2部は、併合の起源、
米仏蘭と結んだ条約の没収、台湾事件などを振り返り、
1870年代の「琉球処分」に至るまでの実相を問い直した。


第3部は、武力行使による「処分」、
救国運動などの実情をつづった。


「処分」の理由は、
中国との外交禁止と裁判権移管に従わないことだった。


これらは国権の根幹だったため、
琉球は従わず、権限を行使し続けた。

しかし、明治政府は天皇による
"抜き打ち冊封"の君臣関係を根拠に権限放棄を命じ、
琉球が従わなかったため武力で 威嚇した、と連載で指摘した。


「併合される局面を詳しく知ることで、
沖縄が独自の存在だと分かった」


「現在の沖縄が置かれた状況と重なって見える」
など多くの反響があるという。


取材・執筆を担当する新垣毅編集委員は、
「オスプレイ配備や辺野古移転など、
沖縄の民意が無視される閉塞(へいそく)状況に陥っている。
自らの権利を主張していくことが今必要だ」
と話す。

連載は今後、共和国として独立した
パラオなど諸外国への取材を重ね、
沖縄自治制といった将来像を探る。(福)





沖縄の自己決定権