◆理屈だけでは、自然への思いは「盲点」になる
前回、行き過ぎた文明や合理性の果てにある「自然との断絶」を防ぐためには、「理屈」だけでなく「情緒」や「感性」が不可欠ではないかと書きました。
いくら「環境を守ろう」と言い、正しい理屈を並べても、人間は自分に直接関心のない事象に対しては、脳が自動的にフィルターをかけ、視界から消してしまう性質(スコトーマ)があります。つまり、心理的な盲点に隠れてしまうのです。
自然を大切にする行動を促すには、まずこの無関心の壁を突破し、自然へと感性を開くための身近な「入り口」が必要となります。
そこで、その入り口として、他でもない「観賞魚」という趣味が極めて特異な役割を果たすのではないでしょうか。
なぜなら魚は水生生物であり、自室の水槽に情愛を注ぐことが、そのまま彼らの故郷である川や海という「巨大な自然環境」への関心へと、途切れなく直結すると考えられるからです。

↑ジェミニさん作:現代社会における人間の「心理的盲点(スコトーマ)」と、テクノロジーへの過度な集中による自然への無関心
◆エゴと良心の呵責こそが「感性」の原点
しかし、ここで一つ厳しい意見が頭をよぎります。
このような事を書いていると「情愛を注ぐなどと偉そうに語っているが、自然界の魚を狭いガラスケースに閉じ込めること自体が人間のエゴであり、結局やっていることは命の消費ではないか!」という批判がくるのではないでしょうか。
というのも、私が学生の頃に、似たような言葉を投げかけられたことがあるからです。
これは私にとって大きなトラウマとなります。
その後、上手い返しが見つからなかった私は、様々な人からフォローしていただきました。
でも、どう考えてもそれは確かに紛れもなく人間のエゴ、であることは事実であり逃れられません。
ですが、ここではむしろそのエゴから目を逸らさないことこそが「日本人の感性」に適うアプローチになるなのではないだろうか、と転換をしたいと思うのです。
閉じ込めることもそうですが、水槽という閉鎖環境に命を預かる以上、人間の至らなさによって生体を病気にさせたり、命を落とさせてしまったりすることがあります。その時に感じる「かわいそう」や「申し訳ない」という胸が痛くなるような痛痒。
これは、孟子が説いた他者の痛みを我が事のように感じる「惻隠の心」と呼ばれる感情の芽生えではないでしょうか。
これら命を囲うことへの「良心の呵責」を正面から受け止めること。
この痛みを伴う感情こそが、人間の傲慢さに歯止めをかけ、命への深い敬意を育む最も純粋なスタート地点となるのではないでしょうか。

↑ジェミニさん作:自室で小さなアクアリウムと向き合う都市の女性の、深い精神的な「目覚め」の瞬間(1個前のイラストの左側にいた女性と思われる)
◆感性を補助固めする「供養」の精神
さらにもう一歩、その芽生えた感性を確かなものにするためのアプローチについても触れておきます。
自然を完全にコントロールし支配しようとする西洋的な価値観に対し、日本には古来より、人間の業を自覚しながら、共に生きた命や、使い古した道具にすら感謝を捧げる「供養」の文化が息づいています。
ゆくゆくは、もっと一般化した「"観賞魚や水草"の供養塔」を建立するというのはどうでしょう。
そして、年に一度は愛好家の皆が観賞魚に対して感謝の気持ちに静かに浸るタイミングがあってもいいのではないでしょうか。
調べてみると魚の供養塔が無いわけではないのですが、愛好家の間で存在はあまり知られていないように感じます。
自らのエゴから目を背けず、命への責任と感謝を具体的な「形」にしていくこの終わりのない精神的プロセス。
これは娯楽を超えて、半ば誇張していえば「観賞魚道」への昇華であると言っていいのではないでしょうか。
「供養」という実践的アプローチを加えることで、良心の呵責から生まれた自然への感性は、一過性の感情で終わることなく、より揺るぎないものへと補助固めされていくでしょう。

↑ジェミニさん作:命の管理という「エゴ」と真正面から向き合ってきた飼育者であることの象徴
◆べき論を超えて
供養という実践によって感性が確かなものへと補助固めされるならば、もはやこの「観賞魚道」において、「具体的にどう自然環境を保護すべきか」といった細かなマニュアルや“べき論”を語る必要はないと思います。
なぜなら、外側から理屈やルールで人間の行動を縛ろうとすれば、人は必ず「自己の正当化」や「功利」といった都合の良い論理でそれを歪め、対立を生み出してしまうに違いないからです。
そうではなく、水槽という入り口を通じて一つの命に対する情愛と、痛みを伴う深い感性が内側に育ちさえすれば、人間は自ずと学び、調べ、自分なりの答えを持ち、行動に反映されるはずです。「真に知れば、行動へと結びつくもの」でしょう。
アクアリストの中に川にゴミを捨てるような連中がいると思いますか?
否、そんな人いるはずありません!少なくともこのブログを読んでいる方にそんな人はいません!!
傲慢さを捨て、自らの偽りなき感情から出発し、自然との関わり方、ひいては己の在り方そのものを問い直す。
それこそが、自然との接点を失った社会において観賞魚という趣味が担い得る、文化的・倫理的な「位置づけ」なのではないでしょうか。
↑ジェミニさん作:自分が愛した魚たちへの想いから出発し、社会的な実践へと昇華された瞬間(最後に女性がイメチェンしたのは心の変化をあらわしているのだろうか?)
◆おわりに
と、ここまで「観賞魚道」などと少々固い言葉を使って書いてきました。
文明の行く末から生じる問題点に対し、観賞魚という趣味を通して、愛好家はどういった態度で向き合うべきか、という一つの思索です。
こんなことを言うと怒られそうですが、私個人としては、観賞魚という趣味は、もっと気軽でゆとりのある趣味であっても良いと思っています。
あくまで趣味の世界ですし、「本音と建前」という言葉があるように、その時々の状況に応じて何が適当な考えなのかは、各個人が自由に判断すればいいことです。細かなルールで縛るつもりはありません。
それに、飼育魚を放流するアクアリストが存在することも事実であり、感性へのアプローチだけではどうにもならないことがあるのも残念ながら事実です。
(飼育魚を放流するという行為が無知ゆえに行われるのだとすれば、まだ改善の余地がありますが、そうでない場合はもはや観賞魚という趣味を潰しにかかってるとしか考えられない・・・)
さて、最後に少し話が逸れますが、中国思想研究者の大場一央氏が、著書で始皇帝の天下統一について触れた際、末尾でこのように説明されていました。
「功利が盛んな社会には、極端な個人主義や新興宗教的な集団が裏表で出現する。その行き着く先は、専制による人間否定の社会となる」と。
これは、資本主義はその合理的な精神が個人の内面にまで浸透し、最終的には自壊していくと説いたシュンペーターの指摘と、なんとも似ているように私には感じられました。
歴史は繰り返す。そして人間の本質が今も昔もほとんど変わらないのだとすれば、私たちはこうして歴史や過去の人たちの考えから学ぶべきことが多いと思わされます。
「合理的に動くことこそが賢い」という価値判断ばかりが強まる現代社会。
だからこそ、どこか非合理で、だからこそ「感性」が何よりも大事なのだという考え方を取り戻し、社会のバランスを保つための仕組みが必要なのではないでしょうか。
そして、そのためのささやかな入り口の一つが、観賞魚という趣味であれば、とても尊いなと私は思います。

