観賞魚の社会的位置について考察

 

◆観賞魚という趣味と文明の発展

突然ではあるが、10年前に私が記した、雨宮 育作による観賞魚という趣味の評価をここに再掲したい。

「原色熱帯魚図鑑」にて「自然界に存する動物や植物を愛好し、其等がもつ美しさを観賞して喜ぶことは文化人の常である」と雨宮育作氏は語り、アクアリウムという趣味を「高尚な趣味」であるとしました。

※『原色熱帯魚図鑑』は、1956年に刊行された書籍で、著者はネオンテトラの初繁殖で知られる牧野信司、校閲は水産学者の雨宮育作が担当している。

 

この一文には、自然を愛でることが人間の文化的営みの一つである、という情操的価値観がにじんでいる。

 

人間は本来、自然の一部として歩んできた存在だ。

しかし文明が発展した先にあるものは、都市や制度といった人工的環境に包囲され、自然との接触を失いつつある、金融と合理性に支配された構造である。

その結果、人は無意識のうちに、自然的なふるまいや癒しを求めるようになる。

それが美や芸術面といった文化的教養を深める"文化人"という言葉の背景の1つなのだろう。

 

シュペングラーは『西洋の没落』において、文明の発展に伴って人間と自然との関係が希薄になり、人間の魂もまた内面から枯渇していくと述べた。つまり、文明化の果てにあるのは自然からの断絶であり、その代償として、精神の空洞化が生じるのである。

 

◆人間という動物と、文明の発達の先にあるもの

人間とは、いったいどのような存在なのか。

古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間を「社会的動物(ポリス的動物)」と定義した。人は他者と関わり、秩序ある共同体のなかで生きる存在だというわけである。それに対して原始仏教の長老は、人間の本質をもっと厳しく見る。

人間は欲望に突き動かされる存在であり、必ずしも調和的な社会性を持つわけではないことから、「社会的でない社会的動物」と、捉えた。

 

では、そうした人間が築いた文明の行き着く先は、いったいどこなのか。

カール・ポランニーは、近代の市場原理主義(新自由主義)を「悪魔の挽き臼」と呼び、本来市場に委ねるべきでない人間の労働や自然環境、文化までもが“商品化”される危険性を警告した。

後期シュンペーターもまた、資本主義はその合理的精神によって成功するが、やがてその合理性が文化を衰退させ、創造的破壊(イノベーション)の力を失っていくと述べている。

 

こうした視点から見れば、文明が発展すればするほど、人間は自然や社会を管理し、効率化し、合理化の果てに破壊していく傾向があるように思える。

そうであるならば、“ある程度”人間の行動に節度を与える制御装置が必要なのではないか。

文明とは単なる技術や制度の進歩ではなく、人間の営みとしての「文化」の総体である。であれば、文化の一部である「趣味」もまた、何らかの倫理性や徳性を帯びているべきであろう。

 

そう考えると、観賞魚という趣味も、単なる癒しや娯楽ではなく、もっと深い意味を持ちうる可能性がある。

都市化し、自然との接点を失いつつある現代社会において、観賞魚は、人間と自然、そして生命との関係を問い直す存在になりうるのではないか。
それこそが、観賞魚という趣味が現代社会のなかで担い得る、文化的・倫理的な「位置づけ」なのではないだろうか。

◆求められるもの

合理的な判断や経済的視点も、もちろん現代社会においては欠かせない要素だ。
だが、それだけに偏れば視野は短期的になり、個人の利益ばかりを追い求める社会に傾いてしまう。

「今だけ、金だけ、自分だけ」そうした合理性の極地では、自然とのつながりを感情的に理解することは難しい。


映画『男はつらいよ』で寅さんはこう言う。
「人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。」

この言葉の通り、人間は決して理屈だけで動く存在ではない。むしろ、郷土や仲間といった共同体への思い、時間を超えた記憶やつながりといった個の“合理”とは異なる“非合理”の感覚こそが、自然と向き合うときの土台となるのではないだろうか。

 

もちろん、経済合理性のアプローチを否定しない。TEEB(生態系と生物多様性の経済学)のような枠組みは、自然保護の価値を経済の言葉で伝える有効な手段だ。
だが、自然との関係を本当に再構築するために必要なのは、そうした合理性と対なる“情緒”といった感性だ。

 

では、日本人の感性に適うものは何か。

その上で、日本の観賞魚という趣味の社会的な位置、そして在り方とは何か。
 

次回更新の際は、もう少し掘り下げて考えてみたいと思う。