内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本の思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授)が高校生のインタビューに答えた東北論ですが、
震災後の復興が阪神大震災とは規模が違うけれども、遅れていること。官僚や政治家などの質が落ちていること。責任を取ろうとしない東電や政治家、官僚。まず復興のことを考えるのがまっとうであるはずなのに、知らせるべき真実を隠し、経済振興や軍備、通商・・・。その根に、明治維新以来の差別があると書いておられます。
犬養 道子さんという随筆家の書いた文章を思い出しました。(いぬかい みちこ、1921年4月20日 - は、日本の評論家。元首相・犬養毅の孫。カトリック教徒)彼女の文章の中で、祖父、犬養毅が太平洋側から日本海側にまたがる兵庫県の知事の時に、日本海側のことをないがしろにしない地方自治をしたことを書いた文章を思い出し、それに比べて、
今の政治家は票を取ることだけに、票田を訪問し、中央官僚は自分の住む東京だけが日本だと思っているように思います。アメリカやカナダでは州政府の所在地より大きな町がたくさんありました。そんな様を見て、日本を見ると、なんでも東京と言うのは、国にもしものことがあった場合、全てが終わってしまう危うさを感じます。
余計なことを書きましたが、内田先生の文章を読んでいただきたく思います。
転載
―先生は阪神淡路大震災も経験なさってるわけですよね。その時と比べてみてどうですか。
何が違うかと言うと、天変地異のレベルの話じゃなく、それに対処するときの政治と社会の問題だと思います。今回の対応の悪さって、桁外れなんじゃないかな。日本の社会全体としての復興に対する、支援に対する態度っていうのがひどいんじゃないですか。
阪神の時は、半年ぐらいで大体瓦礫の片もついて、日常生活は回復したわけでしょう。その時も行政の不手際にはずいぶん文句がつけられたけれど、被災した人間の実感としては、行政はそこそこよくやったんじゃないかと思います。
でも、今回は、まだ16万人ぐらいの人が家に帰れないでいる。東電からの補償もほとんどされてない。本当だったら革命が起こるくらいの怒りが住民の側にはたまっているはずなんだけど、じっと耐えてる。
その一方で、政府はTPPだとか改憲だ原発再稼働だとかいう話ばかりしている。被災地支援よりも、「まず経済成長」という話になっている。被災地は見捨てられているというのが僕の実感です。東北のことなんか、もう考えたくないというのが政府の本音なんじゃないかな。
1995年と2011年を比べると、政府と自治体の初動のまずさと、被災者に対する情の薄さが際だっていると思います。災害のスケールが違うから一律には論じられないけれど、それでもこの間に、日本の統治機構が激しく劣化したのは事実だと思います。政治家と官僚と財界人と、それとメディアですね、劣化したのは。
―具体的に例えばどんなこととかを問題に思いますか。
津波や地震の被害の復興のような物質的な手当はたとえ緩慢ではあっても、やるべきことはやってはいると思うんです。一番遅れているのは、原発事故の被災者に対するケアですね。本気で支援しているのだろうかと思う。
一番遅れているのは情報開示です。被害状況を包み隠さず開示していない。あのとき一体原発で何が起きたのか、今は何が起きつつあるのか、どんなリスクをわれわれは負っている、そのことをきちんと開示することが最優先だと思う。
第二に、なぜこんな事が起きたのかを問うこと。「想定外」では済まされません。十分な危機管理ができていなかったから、こんなことが起きた訳で、ではいったいなぜ十分な危機管理がなされなかったのか、その理由が問われなければいけない。コストの問題なのか、政策判断の問題なのか、単なる怠業や責任放棄なのか。でも、その問いも棚上げされたままです。とりあえずは追求をかわして、あれこれ言い訳して、適当にごまかして、ほとぼりが冷めるのを待とうという態度が東電も経産省もあらわです。基本的な態度が「ごまかす。ほとぼりが冷めて、メディアや国民の関心が薄れるのを待つ」ということなんです。
特に自民党政権になってからは、原発は再稼働を前提にしていますから、どうやって原発のリスクを有権者に過小評価させるかが今は政策的に優先されている。
いまも福島第一原発は危険な状態にあるわけですけれど、そのことはもう報道しないで欲しいと政府は思っている。政府も忘れるから、国民のみんなも忘れてください、って。
被曝のリスクもそうですよね。甲状腺異常などがすでに報告されているけれど、政府はこれは原発事故には関係ない、誤差の範囲であるという判断に固執している。どんなリスクを日本人が負わされているのか公開しない。
国民の健康のためには行政はある程度ナーバスになっていいと思います。国民の健康についてのリスクを過大評価したせいで失うものと、過小評価して失うものは桁が違うんですから。
でも、リスクを過剰にアナウンスすると、今度は被災地産の農産物とか水産物とか国内外で売れなくなってしまう。経済的にはたしかにダメージがあります。それでも、情報は全面的に開示すべきだと思う。
そのせいで被災地の生産物が売れなくなったのなら、その経済的な損失は一億三千万の国民で分かち合う、ということでいいと思うんです。だって、福島の農作物が売れなくなったのは、福島の農家の自己努力の不足とか、経営の失敗とかじゃなくて、原発事故という国策のせいなんだから。そして、その国策を黙って支持してきたんなら、国民全体の責任でもあるわけです。
でも、東北の被災地への復興支援は日本人全体が引き受けるべきことだという挙国一致的な支援体制ができるためには、福島で今何が起きているのかを全国民の前に明らかにしなければならない。被曝リスクがどれくらいの規模のものか、福島はどれほどの痛手を負ったのかを明らかにしなければならない。政府も東電も、それがしたくないのです。できるだけ被害を軽微なものだと思わせておきたい。そうじゃないと、原発再稼働の道筋が通りませんから。その結果、全国民的な被災地支援機運が盛り上がらない。
それどころか、アベノミクスとか言って、株価とか金融の話に話題が一気に振れて、もう震災のことも津波のことも原発事故のことも、はやく忘れたいという気分になっている。メディアでももうほとんど被災地の情報は奉じられない。そんな景気の悪い話ばかり取り上げていると売れないと思っているんでしょう。そして、どの銘柄の株を買えば濡れ手で粟の金儲けができるかとか、そういう「景気のいい話」に話題を移している。
本来であれば国を挙げてどうやって被災地を支援していくか、どうやって復興の手だてを考えるかということに集中すべき時期なのに、みんな考えたくない。問題を直視しようという意欲を日本人自身がなくしているということだと思います。安倍政権の支持率は70%ですよ。東北の問題をばっさり切り捨てている人を国民の70%が支持している。東北の復興が日本にとっての最優先のイシューであるという認識がもう国民にはないんだと思います。それよりもTPPと株価と改憲と尖閣問題とか優先してきている。
一部転載終わり
これ以降も大切だと思います。
震災後の復興が阪神大震災とは規模が違うけれども、遅れていること。官僚や政治家などの質が落ちていること。責任を取ろうとしない東電や政治家、官僚。まず復興のことを考えるのがまっとうであるはずなのに、知らせるべき真実を隠し、経済振興や軍備、通商・・・。その根に、明治維新以来の差別があると書いておられます。
犬養 道子さんという随筆家の書いた文章を思い出しました。(いぬかい みちこ、1921年4月20日 - は、日本の評論家。元首相・犬養毅の孫。カトリック教徒)彼女の文章の中で、祖父、犬養毅が太平洋側から日本海側にまたがる兵庫県の知事の時に、日本海側のことをないがしろにしない地方自治をしたことを書いた文章を思い出し、それに比べて、
今の政治家は票を取ることだけに、票田を訪問し、中央官僚は自分の住む東京だけが日本だと思っているように思います。アメリカやカナダでは州政府の所在地より大きな町がたくさんありました。そんな様を見て、日本を見ると、なんでも東京と言うのは、国にもしものことがあった場合、全てが終わってしまう危うさを感じます。
余計なことを書きましたが、内田先生の文章を読んでいただきたく思います。
転載
―先生は阪神淡路大震災も経験なさってるわけですよね。その時と比べてみてどうですか。
何が違うかと言うと、天変地異のレベルの話じゃなく、それに対処するときの政治と社会の問題だと思います。今回の対応の悪さって、桁外れなんじゃないかな。日本の社会全体としての復興に対する、支援に対する態度っていうのがひどいんじゃないですか。
阪神の時は、半年ぐらいで大体瓦礫の片もついて、日常生活は回復したわけでしょう。その時も行政の不手際にはずいぶん文句がつけられたけれど、被災した人間の実感としては、行政はそこそこよくやったんじゃないかと思います。
でも、今回は、まだ16万人ぐらいの人が家に帰れないでいる。東電からの補償もほとんどされてない。本当だったら革命が起こるくらいの怒りが住民の側にはたまっているはずなんだけど、じっと耐えてる。
その一方で、政府はTPPだとか改憲だ原発再稼働だとかいう話ばかりしている。被災地支援よりも、「まず経済成長」という話になっている。被災地は見捨てられているというのが僕の実感です。東北のことなんか、もう考えたくないというのが政府の本音なんじゃないかな。
1995年と2011年を比べると、政府と自治体の初動のまずさと、被災者に対する情の薄さが際だっていると思います。災害のスケールが違うから一律には論じられないけれど、それでもこの間に、日本の統治機構が激しく劣化したのは事実だと思います。政治家と官僚と財界人と、それとメディアですね、劣化したのは。
―具体的に例えばどんなこととかを問題に思いますか。
津波や地震の被害の復興のような物質的な手当はたとえ緩慢ではあっても、やるべきことはやってはいると思うんです。一番遅れているのは、原発事故の被災者に対するケアですね。本気で支援しているのだろうかと思う。
一番遅れているのは情報開示です。被害状況を包み隠さず開示していない。あのとき一体原発で何が起きたのか、今は何が起きつつあるのか、どんなリスクをわれわれは負っている、そのことをきちんと開示することが最優先だと思う。
第二に、なぜこんな事が起きたのかを問うこと。「想定外」では済まされません。十分な危機管理ができていなかったから、こんなことが起きた訳で、ではいったいなぜ十分な危機管理がなされなかったのか、その理由が問われなければいけない。コストの問題なのか、政策判断の問題なのか、単なる怠業や責任放棄なのか。でも、その問いも棚上げされたままです。とりあえずは追求をかわして、あれこれ言い訳して、適当にごまかして、ほとぼりが冷めるのを待とうという態度が東電も経産省もあらわです。基本的な態度が「ごまかす。ほとぼりが冷めて、メディアや国民の関心が薄れるのを待つ」ということなんです。
特に自民党政権になってからは、原発は再稼働を前提にしていますから、どうやって原発のリスクを有権者に過小評価させるかが今は政策的に優先されている。
いまも福島第一原発は危険な状態にあるわけですけれど、そのことはもう報道しないで欲しいと政府は思っている。政府も忘れるから、国民のみんなも忘れてください、って。
被曝のリスクもそうですよね。甲状腺異常などがすでに報告されているけれど、政府はこれは原発事故には関係ない、誤差の範囲であるという判断に固執している。どんなリスクを日本人が負わされているのか公開しない。
国民の健康のためには行政はある程度ナーバスになっていいと思います。国民の健康についてのリスクを過大評価したせいで失うものと、過小評価して失うものは桁が違うんですから。
でも、リスクを過剰にアナウンスすると、今度は被災地産の農産物とか水産物とか国内外で売れなくなってしまう。経済的にはたしかにダメージがあります。それでも、情報は全面的に開示すべきだと思う。
そのせいで被災地の生産物が売れなくなったのなら、その経済的な損失は一億三千万の国民で分かち合う、ということでいいと思うんです。だって、福島の農作物が売れなくなったのは、福島の農家の自己努力の不足とか、経営の失敗とかじゃなくて、原発事故という国策のせいなんだから。そして、その国策を黙って支持してきたんなら、国民全体の責任でもあるわけです。
でも、東北の被災地への復興支援は日本人全体が引き受けるべきことだという挙国一致的な支援体制ができるためには、福島で今何が起きているのかを全国民の前に明らかにしなければならない。被曝リスクがどれくらいの規模のものか、福島はどれほどの痛手を負ったのかを明らかにしなければならない。政府も東電も、それがしたくないのです。できるだけ被害を軽微なものだと思わせておきたい。そうじゃないと、原発再稼働の道筋が通りませんから。その結果、全国民的な被災地支援機運が盛り上がらない。
それどころか、アベノミクスとか言って、株価とか金融の話に話題が一気に振れて、もう震災のことも津波のことも原発事故のことも、はやく忘れたいという気分になっている。メディアでももうほとんど被災地の情報は奉じられない。そんな景気の悪い話ばかり取り上げていると売れないと思っているんでしょう。そして、どの銘柄の株を買えば濡れ手で粟の金儲けができるかとか、そういう「景気のいい話」に話題を移している。
本来であれば国を挙げてどうやって被災地を支援していくか、どうやって復興の手だてを考えるかということに集中すべき時期なのに、みんな考えたくない。問題を直視しようという意欲を日本人自身がなくしているということだと思います。安倍政権の支持率は70%ですよ。東北の問題をばっさり切り捨てている人を国民の70%が支持している。東北の復興が日本にとっての最優先のイシューであるという認識がもう国民にはないんだと思います。それよりもTPPと株価と改憲と尖閣問題とか優先してきている。
一部転載終わり
これ以降も大切だと思います。
