どうして、マクロビオティックがこれほど盛んになったの?
マクロビオティックに代表される食養法は多分江戸時代末期から存在していたのではないかと言われています。その考え方を明治時代になって広めたのが石塚左玄です。
石塚左玄(1850~1909)幕末、福井藩に生まれる。明治維新後、陸軍に入り、陸軍少将、薬剤監で退役する。
主著に『化学的食養長寿法』。
明治陸軍三奇人の一人と言われた。
陸軍退役後、大日本食養会を創設、食べものによる病気直し、食養医学を唱導、今日の自然医学興隆の祖となる。
石塚左玄は明治の文明開化運動のさ中で、欧米近代医学を学び、陸軍軍医の道に入り陸軍階級制の中でその頂点にまで達したが、夫婦アルカリ説、ナトリウム、カリウムのバランス論というかたちで西洋医学を超える食養医学の土台をつくり上げた。
現代日本で左玄の名を知る人は未だすくないが、やがて全日本国民によってその偉大な業績をほめたたえられる日が来るであろう。彼の弟子、孫弟子として名を成した人の数は多く、数百人に及ぶ。
太田龍著「日本の食革命家たち」(柴田書店、1984年3月1日 初版)より
丁度この時代、ドイツに留学しドイツ流の栄養学が日本の主流になった基礎は、森鴎外や北里柴三郎でした。留学先で学ばれた方々の成果が,当時の大部分の日本人に受け入れられました。私達のごく少数を除いて、石塚左玄の重要なことは全く知りませんでした。
左玄には、こんな話があります。彼の時代、陸軍の将官達の殆どが、武士の出身でした。だから、乗馬はたしなみでした。陸軍では多くの馬が軍用として飼われていました。そんな中に、とてつもない暴れ馬がいました。誰も調教できない。誰も乗りこなすことが出来ない馬は廃馬にするしかないと言うところまで来たとき、左玄が上官に、「3日間猶予が有れば、この馬を調教し、乗りこなしましょう。」と言います。上官達は本気にしませんでしたが、兎に角、任せてみることにしました。
左玄は、馬の食事を変えました。大豆を食べさせたのです。大豆は頭と身体を冷やす作用があります。と言うことは、性質が陽性から陰性に変わり、おとなしくなります。
3日後、馬場で馬は左玄を乗せて、従順に命令に従います。上官達は驚き、どのように調教したかを質問します。左玄は飼い葉を変えただけだと伝えます。以来、左玄は馬だけではなく、人間の病気を治療するようになり、軍隊だけではなく、一般の人達も左玄を訪れ、食事指導を仰ぐようになったと言うことです。
左玄の弟子で有名なのが、二木謙三、桜沢如一です。二人の考え方は全く一致と言うことではありません。二人以外にも沢山の弟子達が居ます。いずれの説でも、食べ物が本来持っている性質がある。東洋では、全てを陰、陽に分類するのが伝統的で、バランスの良い取り方、生き方をするのが、健康を保つ秘訣だと説いています。
左玄の弟子の一人、桜沢如一(1893~1966)は石塚左玄により健康になり、マクロビオティック(無双原理)をもってパリへ無銭旅行、第2次世界大戦のために帰国、反戦平和のために努力し、投獄される。
戦後は彼の理想とする世界政府、その為の真の健康の考え方を世界に広めるために、アジア、アフリカ、ヨーロッパに渡り、多くの共鳴者や実践者を得る。
その弟子の一人が、アメリカの東海岸で活躍、スミソニアン博物館にマクロビオティックの資料を「久司とその家族」というタイトルで納められた、久司道夫先生です。同時に、西海岸ではお亡くなりになりましたが、ヘルマン相原という先生が活躍されました。そのような先生方の努力が、多くのアメリカ人にマクロビオティックの良さを認識させ、実戦させるようになりました。
私達が知っている名前だけでも、例えば、トム・クルース シガニー・ウィバー クリントン夫妻 スポック博士 一時はジョン・レノン夫妻も実戦していたようです。他にも、多くの有名人達がいるようです。
ヨーロッパにも、桜沢は多くの弟子を残しました。数年前、南フランスのマクロビオティックの宿泊施設に10日間宿泊しましたが、私の宿泊していた間、老若男女、連日100人くらいの宿泊客が、食事法や考え方の講演、実習などを楽しみながら、バカンスを楽しんでいました。
アメリカのスーパーモデルはマクロビアンだ。マクロでダイエットすると、リバウンドしない。この様な話が、ファッション雑誌をにぎわし始めた頃から、若者を中心にマクロビオティックに関心が持たれ初め、ヤット、日本に逆輸入され、書店の料理のコーナーをマクロ関係の本が、にぎわすようになりました。
マクロビオティックの良さを外国の方に改めて教えていただいたという格好です。
今日は、大雑把にマクロビオティックの流れを書かせていただきました。
次は、いよいよ・・・

