(つづき)

前々回に書いた読み終えていた本に

宮地尚子・村上靖彦

『とまる、はずす、きえる ケアとトラウマと時間について』(青土社)

がある。ずっと前に購入記録だけ残してあった積読本。

 

濃密な人間関係とその把握を必要とする業務に関わっていたことがあって

それは眼前の相手との関係と、その相手が抱え込む関係との両方で

うまく把握できて切りかえられて進めてゆかれる人もいたのだが

スーパーバイズも受けない医療従事者でも心理従事者でもない身にあっては

それらを(言い方は悪いが)さばいて業務を進めてゆこうとしたとき

何か一つ筋が通った考え方を持たないと自分を保てない。

長く関わっていたから、それまで身につけた過去に学んだ指針はあったが

それらでは対応しきれない時代になったと気づいた、というほうが正しい。

 

そうしてあれこれ探した中に看護学があって少しずつ学んでいたのだが

手に取った中に村上の著作もあって、現象学は学生時代に読みかじっていたし

内容はともかく読みやすいこともあって幾冊か読み進めたのだった。

その後、事務方に配置が変わり現場に戻ることはなく現在の生活に至るなかで

『仙人と妄想デートする 看護の現象学と自由の哲学』(人文書院)しか

手元には残していない。

 

この方面への関心は残っているしと読み進めると、現象学はともかく

トラウマ・木村敏・レヴィナス・当事者研究といった

関心があるもの少しでも関わりがあったキーワードがいくつもあって

興味深く読むことができた。

 

ただ、第4回「すぎる」ー痕跡と生存、

その中の「裁く側に立つ」という部分からの流れで書かれた

互いの大学教授や医者や学者としての「裁く側」「救う側」としての

立場について話が及ぶと腰砕けになる。それは誠実の表れなのかもしれないが

でも、この人たちとは関わりたくはないな、とも素直に思った。