書院には様々な書物があった。
真魚が今まで見たことのないものも多くあった。
こんな山奥にもこれだけのものが存在する。
真魚は驚きを隠せなかった。
「これを全部見ても良いのか?」
真魚は興奮していた。
雑密と呼ばれている修験道の秘術も沢山あるはずだ。
それを門外漢である真魚に全て見せると言うのだ。
「本当に良いのか?」
真魚は紅牙に確認した。
「老師が良いと言っているのだ」
「お前も知りたいことがあるだろう」
紅牙は更に真魚に言う。
「分かっていると思うが、呪法や呪術が書物を読んだだけで出来る訳がない」
「それなりの霊力や経験がないと無理だ」
「それはここにいる修験者の誰もが分かっている」
「ここで見たものをどうするかは、今後のお前次第と言うことだ」
紅牙は真魚に老師の考えそのものを伝えた。
「俺は試されているのか・・・?」
真魚はつぶやいた。
「だがな」
紅牙は続けていった。
「お前は別だ。」
「お前ならここにあるものを倍にさえすることが出来る」
「俺はそう思っている」
紅牙は真魚に夢を、全てを託したと言っているのである。
「分からんぞ」
真魚はいたずらにそう言って見せた。
「ぬかせ!」
紅牙が言った。
「笑いながら言うな」
紅牙の思いは真魚に受け継がれた。
それは役小角の思いでもあった。
真魚は書院の一室に籠もっていた。
数日間ろくに食事も取らず書を読みふけっていた。
うずたかく積まれた書物の更にその奥にその姿はあった。
真魚は驚いていた。
こんな山奥の寺院に、これだけの書物が埋もれていることに。
雑密の秘術、教典、図、絵・・・。
真魚が今まで見たことのないものが沢山あった。
中には読むことすら出来ない異国の文字で書かれているものも存在した。
今まで一通りの学問をしてきたつもりでいた。
だが、足りなかった。
真魚はこのとき自分の無力さを痛感した。
それと同時に新たな光を感じた。
「世界は広い・・・まだ・・・」
「!」
そう思った時、真魚の前にぼんやりと人の形が現れた。

真魚は意識を集中させた。
分かっていた。
その人影が誰であるのか・・・。
「役小角か?」
ぼんやりしていたものはだんだんとその者の形となった。
「佐伯真魚殿じゃな」
その影は真魚の問いかけを否定しなかった。
「面白い」
「近くで見れば更に面白い」
その影はそう言った。
「俺は見せ物ではない」
真魚はきっぱり言った。
「だが、あちらでは人気者でござるぞ!」
「人気は鰻登りじゃ」
その影はそう言う。
「念が残っている」
真魚は小角の影にそう言った。
「そうか」
「残した思いは少々ありまする」
小角の影は言う。
「だが、新しい芽がいずれ花を咲かす」
「そうであろう、真魚殿よ」
小角の影は真魚に向き合う。
「俺がその花を咲かせても良いと言うのだな」
真魚は小角の思いを感じていた。
「ほう」
小角の影は真魚の心の内を探っていた。
「だがな、俺は俺のやり方でさせてもらおう」
真魚ははっきりそう言った。
「そうか、それもそうじゃろな」
「まあそれも良かろう」
小角の影はそう答えた。
「お主はすでに理の一部を手に入れている」
「しかし、それは手に入れたと言うだけじゃ」
『理の一部』小角の影は真魚が持っているものをそう表現した。
「分かっている」
地図を手に入れただけではその場所に行ったことにはならない。
それと同じことである。
「お主には敵も多い」
既に何度も手を出されている。
「前鬼と後鬼を連れて行くが良い」
小角は思いがけない言葉を言った。
「よろしいのか?」
真魚は小角の影に尋ねた。
「前鬼の知識の灯りと後鬼の理水、役に立つはずじゃ」
「それに、お主にわしの幻影を重ねておる」
今ここに実態がない自分を小角は残念に思っているようだ。
「夢を追い始めた奴らに、夢を見るなと言うのは酷であろう」
小角の影は遠回しに『自分も楽しんでいるのだ』と言っているようであった。
「ありがとうございます」
真魚は小角の影に礼を述べた。
「では、そうさせていただきます」
真魚は全てを受け入れた。
「それと…真魚殿は気づいておるか?」
小角は真魚に問いかけた。
「何でしょう?」
真魚は小角の念を探る。
「襲ってくる奴らの正体のことじゃ。」
小角はそう表現した。
「大体のことは・・・」
真魚はそう答えた。
「そうか、それならば良い」
小角は安心した様だ。
「真魚殿、心してかかるがよい」
そう言うと影は消えていった。
真魚は驚異的な速さで書院の書物を読み終えた。
誰もがその事実に驚愕した。
「お前は恐ろしい奴だ」
紅牙にしても真魚の超人的な能力に舌を巻いた。
「そろそろ出立しようかと思います」
真魚は老師を訪ねその旨を伝えた。
「そうか・・・」
「これを持って行け。」
そう言うと金色の布に包まれているものを真魚に差し出した。
「何でしょう?」
真魚は老師に尋ねた。
「開けてみればよい」
老師は言う。
真魚は恐る恐るその封を解いた。
「こ、これは!一体!」
真魚は驚いた。
その法具から出ている霊力がすさまじいものであったからだ。
「今度の玩具はこれじゃ、欲しくはないかな」
玩具と呼ばれた代物は黄金の輝きを放つ五鈷杵と五鈷鈴であった。
赤い宝玉が埋め込まれていた。
前のものとは次元が違う。
それは隠してある棒の共鳴が証明していた。

『これは、やられたな』
真魚は蔵王権現に感謝した。
『やはり俺はまだまだだ…』
真魚は自分の未熟さを恥じた。
法具を見つめる真魚に老師が言った。
「これからはこれで闇から出てくるアヤカシどもを浄化せよ」
「五鈷杵と五鈷鈴の使い方は分かっておるじゃろう」
老師は真魚に確認した。
真魚もそれらをどのように使うかは知っていた。
単なる浄化の法具と言うだけではない。
新たな可能性を秘めていた。
「その者が来れば託す必要がある」
「小角様との約束じゃ」
「それに、使いこなす者がいなければ何の役にもたたん」
「お主なら出来るであろう」
老師は全てを真魚に託した。
「ありがとうございます」
真魚は礼を言った。
すがすがしい朝であった。
「残した思いはもうない」
それは真魚の心の内を表していた。
風が「早くせよ」と真魚の背中を押した。
「気を付けろよ」
紅牙が真魚に言った。
「ああ」
紅牙は真魚のその素っ気ない返事の中に、決意を感じ取っていた。
黒い棒と赤い瓢箪。
薄汚れた衣とぼろぼろの草履。
そして子犬。
何とも軽装であった。
「世話になった」
真魚は礼を言った。
「老師には伝えておく」
紅牙が言った。
それだけであった。
それだけで寺を後にした。
真魚は振り返ることはしなかった。
それは真魚の生き方そのものかも知れない。
紅牙はその姿を頼もしく見送った。
「あの幼かった真魚が・・・」
その姿が見えなくなるまで紅牙は真魚達を見ていた。

「おーい!」
後ろから声がした。
「真魚、なんか来たぞ!」
子犬の嵐が言う。
「わかっている」
真魚が素っ気なく答える。
「こら!真魚殿!」
前鬼であった。
「年寄りを走らすとはどういうことじゃ」
後鬼も一緒であった。
「お主らであればどこからでもこられるであろうに。」
真魚は素っ気ない。
歩くことを止めることもない。
「形というものがあろうが!」
「旅立ちの形じゃ!」
いつになく二人は興奮していた。
「俺はこだわらない」
真魚は素っ気ない。
「小角様に聞いたぞ!」
前鬼がいう。
「わしらの力がいるのじゃな!」
後鬼が言った。
「来たくなければ来なくて良いぞ」
真魚は冷たくあしらった。
「相変わらずじゃな」
前鬼が言う。
「まあ、真魚殿のイケズなこと」
「素直にお供せよと言ってくれればわしらとていやとは言えへんし」
後鬼が言う。
「勝手についてこい」
真魚はそう表現した。
「ウヒャヒャヒャ~。決まりだ決まりだ」
二人は同時に言った。
「お主ら言っておくが・・・」
嵐が間を割るように言った。
「食料は自分達で調達だぞ」
先輩口調の嵐の言葉に真魚が笑った。
「何の心配かと思えば食い物か!」
真魚は嵐をたしなめた。
「争いの原因のほとんどは食い物だ」
嵐は言い切った。
「お主らしいな~」
前鬼が挑発した。
「心配するな、お主ほど大食いではないぞ」
後鬼が言った。
「それはそうと真魚」
ばつが悪い嵐が話を変えた。
「本当にあの書院の書物を全部読んだのか」
嵐が真魚に聞いた。
「いや」
真魚がさらりと言った。
「急いで行かなくても良いんだぞ」
嵐にとって最も居心地の良い場所は、食い物が常にある所だ。
「もう用はない」
真魚はきっぱり言った。
「二度と読めないものもあるかも知れないぞ」
嵐は念を押した。
「書物には全部目を通した」
「だが今の俺には読めないものもある」
真魚が答える。
「では、どうするのじゃ?読めるようになってからまた戻ってくるのか?」
嵐は面倒くさそうに言った。
「俺が読めないものは他の者も読めん」
真魚が言う。
「今読めないのであれば戻って来るしかないではないか?」
嵐は『そんなことはいやだ!』と目で訴えていた。
「後で読めばいい」
真魚が言った。
「後って言っても・・・戻るしか・・・!」
「・・・!・・・・・・!・・・・・・・・・!!!」
「真魚!」
「お前!まさか!」
嵐はそう言って真魚の腰の瓢箪を見た。
真魚は笑っていた。
「誰も読めないものがなくなっても誰も文句は言うまい」
「しかも、この書物を体現できるのは俺だけだ」
真魚は何食わぬ顔で言った。
「真魚、お主も相当の悪よの~」
嵐は真魚に感心した。
「悪よの~この旦那は~」
「ほんまやの~」
前鬼と後鬼はそう言いながらも真魚に親しみを覚えはじめていた。
「食料もいっぱい入るし、その瓢箪はほんまに役に立つなぁ~」
嵐が気持ちを込めてそう言った。
「それで真魚どれだけの書物をナニしてきた?」
嵐は地面を掻く仕草をして真魚に尋ねる。
「覗いてみるか?」
真魚は瓢箪の蓋を取るふりをした。
「や、止めてくれ!その中だけは止めてくれ!」
嵐は懇願した。
前鬼と後鬼に出会ったとき、
その中に隠れようとしたことを既に忘れている。
「それは残念だな」
真魚は笑いながらそう言った。
「なさけないやつちゃのう」
前鬼は嵐を挑発する。
「お主らは知らぬ!あの瓢箪の恐ろしさを!!」
「一度入って見るがよい!」
嵐は心底怖がっていた。
「今は止めておこう」
前鬼が逃げた。
「その辺にしとき!」
後鬼が二人をたしなめた。

「そうだ!真魚!」
嵐が急に思い出した様に言った。
「次はどこに行くのじゃ?」
嵐が次の行くあてを聞いた。
「まだ決めていない」
真魚が答えた。
「まだ決めていないのにどうしてこの道を行くのじゃ。」
嵐が抗議する。
「では、お前はどうしてここを行くのだ。」
真魚が嵐に聞く。
「それはお主が行くからであろうが!」
嵐がそう言った。
「ならばこの道で良いのではないか?」
真魚が確認する。
「俺の行く道がその道と言うことだ。」
真魚はきっぱり言った。
「そうかなぁ~」
嵐は納得していない。
「そうだ」
真魚が言う。
「まあそんなものかなぁ~」
嵐はそんなことはどうでも良くなってきた。
行くべき道は確かにある。
『それだけで良い』
そう思えてきたからだ。
「まあそれでええわ!」
嵐は半ば投げやりでそう言った。
前鬼も後鬼も笑っていた。
一人の男と小さな銀色の子犬
そして、二人を加えあてのない道を行く。
あてはない。
あてはないがその道は全てに通じている。
少し離れた木の上に群れからはぐれた野猿がいた。
真魚達の一部始終を覗きながら、木の実を食べていた。
『くそ坊主め!』
真魚は心の中でそうつぶやいた。
既に様々な種はまかれている。
それらは至る所で芽を出していく。
はぐれ猿。
新たな試練が迫っている。
真魚はそれに気づいていた。
闇。
闇があった。
森の木々の隙間。
その闇は形を変えながら蠢いていた。
その隙間から幾つかの目が真魚達を覗いていた。
「やるではないか、佐伯真魚」
「だから言ったであろう」
「次だ、次でやる」
「そうか次か」
「そうだ次だ」
闇は木々の間を揺らめきながら、静かに消えていった。
第二話 - 完 -